先週はここへ、荒唐無稽にも「私がタイムマシン作る」と家族に公言したいきさつを書いたばかりである(別稿「タイムマシン」参照)。まさに噴飯ものの、箸にも棒にもかからない非常識な話である。にもかかわらず私の中には、荒唐無稽なままとは言いながらもタイムマシンへの思いが存在しているのである。実現へのヒントがあるわけではなく、たとえそれが単なる空想に過ぎなくとも私の中のタイムマシンであることに違いはない。

 タイムマシンの研究者はそれほど多くないようだが、本気で研究している学者がいると聞いたことがある。そこでは例えば人間とか動物とか本やリンゴなどの「物体」を時間移動させることの研究に限らず、素粒子に「情報」を乗せて過去に送ることも考えられているという。だとすればそれはまさに量子論の世界である。

 ともあれ私の中のタイムマシンを話す前に、まずは次元の話から始めることにしよう。私たちの住んでいる世界は縦、横、高さからなる三次元の空間である。我が家の家具の配置から世界旅行、そして宇宙空間を飛び越えて銀河の果てに行ったとしても、その地はすべて縦、横、高さの座標として示すことができる。その単位がメートルだろうが、光年だろうが同じことである。

 この三次元世界にもう一つ、時間という座標軸を加えたのが四次元である。だが、とりあえず今のところ人類には時間をコントロールすることはできないので、それを現実に示すことはできない。これは三次元に存在する者の宿命と言ってもいいだろう。タイムマシンの作成には次元が関係するかも知れないと先週書いたのは、こうした意味からである。だが現実にも、空想的にも今のところ私たちは四次元以上の世界を具体的にイメージすることはできないので、とりあえず四次元をいじりまわすことは断念しよう。

 そうしたとき、次元を下げると急に理解がしやすくなる。つまり二次元、一次元、ゼロ次元の世界である。ゼロ次元とは点である。と言っても私たちが普段目にする点とは異なる。この点には幅も高さもないからである。だからここで言う点とは、現実ではありえない単なる頭の中の存在でしかない。そうは言ってもそうした「点」のあることくらいはイメージできるだろう。

 同様に一次元を考えてみる。これは線である。ただそれが曲がっているのか、それとも直線なのかは実は私は分らないでいる。また始点と終点のある線なのか、それとも無限に続く線なのかについても同様である。ただこの線は長さという考えだけがあり、幅や高さという観念はない。だから、これもゼロ次元の点と同様に、現実にはありえない空想の世界である。それでもそうした線の存在を、私たちは考えることができる。

 次に二次元、これは縦と横の世界である。つまり、厚さのない一枚の紙のような世界と考えることができる。もちろん厚さがないと言うのだから、現実には存在しない紙になる。しかもその紙が曲がっているのか平面なのか、更には紙と言ってもどこまで続いている紙と考えればいいのか、つまり面積として有限の紙なのかそれとも無限の広さを持つ紙だと考えていいのかも私には分かっていない。

 それでもこうしたゼロから三次元までの状態を考えることはできる。そしてそこに住む生命体を考えてみることにする。例えば二次元たる紙の上に住む二次元の生物は、厚さがないことになる。そんなものは現実的には存在しないとして否定することはできるけれど、ここは数学の世界として空想してみてほしい。厚さのない生物が、厚さのない紙の上に住んでいるという設定である。

 この世界をもし私たち三次元の生物が見ているとすると、二次元という平面に厚みのない生物が住んでいる世界が見える。その生物は二次元の世界しか知らない。だからそもそも「厚さ、つまり高さ」という観念そのものが彼らの発想の中にないことになる。つまり二次元世界の住人は、高さのある三次元世界を理解できないということである。だが三次元から眺めている私たちは、二次元はもちろん三次元そのものも理解することができる。

 こういうような発想は時に誤りを生む可能性がある。厚さがないという空間を現実として眺めること自体が不可能だからである。だが観念的に理解することはできるだろう。なぜこうした発想をするかというと、次元を低くすると私たちは次元という世界の理解がしやすくなるからである。もちろん次元を下げることによって間違った判断が入る可能性は十分にある。それでも「理解しやすくなる」という利益は避けがたい。

 さて三次元から二次元世界を私たちが眺めているという設定を認めることにしよう。そしてこの二次元の生物を私たちが持ち上げることを考える。二次元生物にしてみると「持ち上げる」という発想そのものがないのだから、持ち上げた瞬間に持ち上げられた生物はその世界から消えてしまうことになる。三次元生物である私たちとしては持ち上げたのだが、二次元の生物にしてみると消えてしまうことになるのである。

 さて、こうした「持ち上げること」そのものが理解できない生物の存在を理解できるとすれば、私たちが住む三次元世界から、四次元生物が三次元の物体を持ち上げるということも、発想としては理解できるだろう。もちろんそれがどんな形で「持ち上げる」のかを理解できない、にしてもである。

 話をもとへ戻そう。我々は二次元世界を眺めている三次元生物である。この二次元平面にAからBへと直線を引く。AからBへ行くには必ず一定の時間を要する。それがたとえ徒歩だろうが光速ロケットだろうが同じである。そしてそこにアインシュタインの「光速度を超えることはできない」を適用するなら、光速度そのものに時間を要するのだから、AからBへ瞬間移動することなどできないことが分る。

 ところが私たちは二次元生物には金輪際理解できない、「持ち上げる」という方法を知っている。そうするとAとBの中間点から平面を折り曲げて、AとBを重ねることができる。すると重ねたとたんに、ABは一致することになるから、その間を移動する時間はゼロ、つまり瞬間移動ができることになるのである。つまり時間ゼロでAからBへと移動できるのである。

 ここでこの直線を時間だと考えてみる。A点を過去のある時点、B点を未来のある時点だと想定してみよう。するとその中間点で時間を折り返すことができるなら、AとBは重なってしまうのだからAからBへの瞬間移動が可能になることを意味している。

 これが私の考えるタイムマシンである。もちろん、「時間や空間を折り曲げる」とはどういうことなのか、どうすればそんなことができるのか、などについて私の知識が皆無であることがこの屁理屈の説得力を欠いている。しかも「折り曲げる地点」をどこに求めるのかを決めていないことは致命的である。なぜなら、「折り曲げ点」が現代、つまり「今」しか選択できないと言うのであれば、「折り曲げる」ことの意味がなくなってしまうことになる。

 つまりA、B点は必ず現在から等距離・等間隔の時刻になってしまうから、AからBへ移動するにしろBからAへ移動するにしろ、折り返し点である現代からAもしくはBへ移動すること自体と矛盾してしまうことになるからである。だが任意の中間点を選択することができるなら、まさに時間旅行は自在になることになる。

 光速度を超えられないとするアインシュタインの宣言も、平面を折り曲げるという稚拙な発想でなんとか解決することができたことだし、そのうち時間における折り返し点の自由な選択も解決できるのではないかと思っているのである。

 三次元の切り口が二次元になる。二次元の切り口は一次元に、一次元の切り口はゼロ次元になることは、私たちの常識で理解できる。ならぱ四次元の切り口が、今私たちが住んでいる三次元の世界になるだろうということも、実感できないにしても観念的には理解できる。これをきちんと理解できるためには数学が必要になるのかも知れないと私は思い、今読んでいる「身につく シュレーディンガー方程式」(牟田 淳著、技術評論社)という本を手にしたのだろう。それにしてもこの本にまるで歯が立たないでいる私を見ていると、タイムマシンの着地点はまさに日暮れて道遠しである。


                                     2015.5.13    佐々木利夫


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