数日前に我が家で子どもや孫と一緒の食事会を開いた。そこでのどうってことのない話の中で、5年後の夢みたいな話題が出た。大人はそれぞれに多少酔っているので、それほど真剣味のある話題ではない。しかも両親たる私と妻はともに後期高齢者だから、5年後なんぞ生きているかどうかさえ定かでないのだから、そんな時の「夢」の話題などまさに荒唐無稽である。

 ただそうした話の出る直前に、私が「身につく シュレーディンガーの方程式」(著者牟田 淳、技術評論社刊)という本を読んでいることが話題になっていた。そしてその本に盛られている溢れるくらい大量の微分方程式や偏微分方程式の羅列が、もう私の能力からしてお手上げであることも自白していた。

 ところでこの本には「量子力学の基本が分かって使える」との副題がついていることからも分るように、素人に向けられた量子力学の解説書である。この本は、こんな言葉で始まっている。

 「本書は高校程度の数式を前提として、数式をていねいに追いながら量子論を理解したい人のための本です。大学1、2年生以上の学生、高校物理では物足りないと感じている意欲的な高校生や量子論に興味がある社会人などが対象です。

 50数年前の高校時代に、多少なりとも微積分をかじったことのある私である。僅かにもしろ数学的に興味を持ち、しかも量子力学にもほんの少し興味を持っている社会人に私は該当する。「大学1,2年生以上」には当てはまらないし、「学校での授業が物足りないと感じている意欲的な高校生」でもない。だが少なくとも「量子論に興味のある社会人」としての要件は満たしているのだから、この本は私のような素人に向けた書物でもあるとも言えるのではないか。

 この書物を手にしたとき、はなから私には歯がたたないとも感じたのだが、読まずにチンプンカンプンを宣言してしまうのは、これまで高校時代の数学、そしてその後も僅かにしろ数学の世界に興味をもってきた私としてはいかにも口惜しいことである。歯が立たないなどというおそまつな実力の宣言を、読む前から私自身に認めてしまうのは許せないことだし、ましてや他人に向かって自白するのはいかにも口惜しいではないか。

 パラパラページをめくってみると、書かれている解説の初歩の初歩くらいは分ること、この本に出ている方程式だって「完璧に分らない」というより、何を言いたいのかくらいの理解のできる部分が数箇所くらいは見つけることができることなどが、次第に私の天狗の鼻を伸ばす要因になっていった。本を読み進めていくほどの力が皆無であることを自覚しつつも、どこかで「知ったかぶり」、「いいふりこき」への誘惑に駆られていったのである。

 はじめから挫折したことを正直に話せば良かったのだが、そうした自白することへの口惜しさからつい「この本が理解できればタイムマシンくらい作れると思った」みたいな発言となってしまい、「理解力ゼロではないぞ」みたいな含みを持った言い方になってしまったのである。

 本の話題からしばらくして「5年後の夢」の話が出たときに、思わず「タイムマシンを作りたい」が私の口を突いて出てしまったのにはこうした経緯があったのである。

 タイムマシンは恐らく誰でも知っている「時間旅行の装置」である。それはSFの世界だけに存在する空想のマシンであり、これを駆使してあらゆる過去、あらゆる未来に人間を送り込むのである。そして出発時点である現代に戻って、歴史を変えられるのか、パラドックスをどう解決するのか、宝くじの当選番号や競馬の着順が発売前や出走前に分るのかなどのストーリーが私たちの夢を誘うのである。

 そんなものが不可能であることくらい誰もが知っていることである。タイムマシンはあくまで空想世界の産物であり、決して実現しない装置であることくらい、常識的に理解されている。それを私は、「作りたい」と言ってしまったのである。だからこそそれは「夢」なのだと言ってしまえるならばそれまでのことではあるけれど、「実現の不可能な夢」は、まさに荒唐無稽であり、たわ言であり、しかも子どもならまだしも70数歳にもなる老人の口から出るような言葉とは思えない一言であった。酔ったせいだと言い訳するのもおこがましいほど「馬鹿馬鹿しい夢の話」である。

 もちろんタイムマシンを学問的に研究している人がいるという話しを聞いたことはある。そして何千分の一秒か何億分の一秒の単位ではあるかも知れないが、時間をコントロールできたとする話を聞いたこともある。とは言っても、それが学術的にきちんと証明されたことなのかどうかは、必ずしも理解できていない。

 さて「タイムマシンを作る」話に戻ろう。「不可能」であることがどこまで証明されているのか私には分っていない。だからと言って仮に可能だとしても、それに私が関わることなどは金輪際無理である。幼稚園児の夢、少年の夢、青年の夢と言った未来ある人の夢と、老人になってしまった者の夢とは意味が違い質が違うのである。

 アインシュタインは物質が光速度を超えることはないことを方程式で示したが、それとても私の理解を超えている(別稿「アインシュタインになれなかった少年」参照)。しかもそれがどんな時空でも成立することなのかどうかは私にはまるで理解できていない。ましてや四次元、五次元・・・N次元なんぞはそれを示す方程式が存在することを理解できても、私たちの世界とどうつながっているのかはまったくの理解の外である。ただ、光速度を超えることがタイムマシンの鍵になっているのかも知れない、時間旅行とは次元の移動かも知れないくらいはどうやら頭の隅に残っている。

 「私がタイムマシンを作る」方法にはいくつかあるだろう。まず第一は「自分で作る」である。私が研究し、マシンを自ら設計することである。だが、とてもじゃないが、この本を読み通すことすらできないような私の能力では無理である。方法は他にもある。私が個人的に作成するのではなくても、私が例えば「タイムマシン開発研究所」なる会社なり財団を設立し、そこに専門知識の豊富な人材を投入して完成させる方法である。それは「私が作った」のではないかも知れないけれど、「私の研究所が作った」ことに違いはあるまい。特許などの問題は残るけれど、それも研究者の採用に当たって契約書などできちんと定めておくなら、解決不可能ではないだろう。

 だが、そのためには膨大な資金が必要だろう。政府などからの補助金は少なくとも現在ではとても期待できないし、公募により出資を集めることも難しい。とすれば自己資金で賄うしかないことになるが、月々の生活がやっとである私の資力からすると実現は無理である。さて、頭もないし金もない、そんな状況では「私が作る」ことは結論的に不可能である。

 「夢を諦めるな」はとても素晴らしい言葉ではあるけれど、ベンチャーを通り越して「老人の夢想」にまで思いが及んでしまうと、それはまさに「荒唐無稽」として世論どころか身内の支持すらを受けなくなってしまうだろう。

 こうして考えていくと、「私がタイムマシンを作る」という思いは、単なる「夢」、しかも「5年後の夢」と呼ぶにはあまりにも無意味なことだと分る。そんなことが私の口から出たこと自体、無茶である。それは私にも分っていたことでもある。せめては、「タイムマシンのことが少しでも理解できる程度の知識を得たい」程度の「夢」にしておいたほうが、僅かにもしろ「夢らしい夢」の範疇に入ったのではないかと、実は反省しているのである。

 シュレーディンガー方程式の本は、まだ手元にある。図書館への返済期限まで後10日ばかり残されている。「理解できないまでもせめて活字を追う努力くらいは、最後のページまで続けたい」との思いはあるものの、恐らくそうした望みの叶うことはないだろう。それでも、返済日のその日まで、手元に置いておくつもりである。そして何度か書かれている方程式を眺めつつ夢と公言したことを後悔し、内容がさっぱり理解できないこの頭にため息をつくことだろう。


                                     2015.5.6    佐々木利夫

      調子に乗って2015.5.13付でとうとう「タイムマシンを作る」を発表してしまいました。


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