先週、天気予報が予報であるのだから当然当たり外れがあるだろうこと、そしてその当たり外れについての検証がまったくなされていないのは怠慢ではないかと書いた(別稿「天気予報の検証」参照)。書いていて、検証されていないこともさることながら、毎日の予報の表現についても気になりだしてきた。

 最近は台風が多発しかつ大型化していることもあって、テレビでは毎日のようにニュースキャスターや気象予報士による降雨情報や風速データなど天気に関する報道が多い。

 「大雨に気をつけろ」、「暴風雨になるぞ」、「こんな兆候が見られたら河川の氾濫やがけ崩れの危険がある」、「警報と避難方法についてのお知らせ」などなど、とても詳しく報道している。あまり提供される情報が多すぎて、切迫感が身近に伝わってこない恨みはあるけれど、報道する側は一生懸命である。

 ただ聞いていて、雨量に関する情報がどうにもすとんと私の中に入ってこないのが気になった。風速は分かる。私は20数メートルクラスの強風くらいしか体感したことがないので、車がひっくり返るとか建物の屋根が吹き飛んだというような現象にぶつかったことはない。

 けれども、風速は「秒速○○メートル」との表現だけで情報としては完結しているから、例えば「風速30メートル、瞬間最大風速35メートル」と言われたとき、その風速を経験したことがなくても、イメージとしての想像はつく。そしてニュースは時に、傘の効かない風とか、歩けないような風などと概略的な体感情報も伝えてくれるので、そこからもある程度の予想がつく。

 ところが雨量は違うのである。確かに雨量の単位は「ミリメートル」に限られている。アナウンサーも気象予報士も、雨量の単位としてミリメートル以外の表現を使うことはない。だが雨量は一つの累積的な単位であることを、報道する者が視聴者に分るように伝えないのが気になるのである。「伝えない」という言い方は不正確かも知れない。「伝えていない」と断定してしまったら、間違いになるだろう。確かにきちんと伝えているからである。

 だが聞いているほうにしてみると、雨量の意味が放送される場面場面で変化していることに混乱してしまうのである。例えば「1000ミリの雨」と言われたとき、その雨をどの程度のものとして理解できるだろうか。「さあ、大変だ。すぐさま身一つで避難しなけりゃならない」と考えるか、それとも「もう少し状況を見てから避難を考えよう」、「なんだ、まだそんなものか。昼寝でもするか」と考えるかである。

 避難に対する考え方を三つ例示したけれど、実はどの考えも間違いである。「1000ミリ」という数値には、避難を示唆する何の情報も含まれていないからである。これが、雨量が累積的な単位であることの意味である。雨量はこのミリという単位に、降雨が継続する時間を合体しないと何の意味もないのである。

 風速が「○○メートル」とのみで情報が完結しているのに対し、雨量はその単位が一時間続くのか、一日続くのか、それとも一ヶ月の累計なのかを合わせて報道しないとまるで無意味なのである。1000ミリが一年間の総雨量だったとするなら、それは少雨どころか「旱魃」と言ってもいいだろう。だが1000ミリが一時間でだとするなら、それは洪水を超えて地域の存亡すら考えないといけないほどの雨量になってしまう。また1000ミリの雨が一分間しか続かないのなら、何も気にすることはないだろう。

 確かにアナウンサーらは、きちんとその雨量が継続する時間の予想を伝えている。ならば、「それでいいではないか」と言うかも知れない。だがそうした情報はテレビの各チャンネルを通じて際限なく私たちに伝えられてくるのである。それも年に一回程度の台風に限られているなら、混乱は起きないかも知れない。だが雨量の情報は日常茶飯事、朝昼晩を問わずに私たちへと流れ込んでくる。

 雨は台風だけではない。霧雨や梅雨から豪雨まで、その程度はともあれ雨に関する情報は毎日のように私たちの耳に入ってくる。札幌が晴れでも東京や九州は雨だと報道されるから、雨量の情報を聞かない日など恐らく皆無ではないだろうか。ただその時々に知らされる雨量情報の単位が、まちまちなのである。確かに「ミリ」単位で正確に予報されている。またその雨量がいつまで続くか、過去のいつからいつまでの累積予報なのかもきちんと報道されている。

 だがその継続するであろう時間の情報がまちまちであり、どこかで「自分に理解できる幅や量」という単位に換算しないと、納得できる雨量としての情報が我が身に染み込んでこないのである。

 「一時間に○○ミリの雨量・・・」、「降り始めから現在までの雨量は・・・」、「降り始めから明日未明までの総雨量は・・・」、「今後予想される雨量は・・・」、「30分間に○○ミリの雨量がありました」などなど、アナウンサーも表現が紋切り型にならないように努力しているのかも知れない。理解しやすい表現をすることは、報道する側の責務である。だから、「私の番組ではこの時間帯の雨量についてこんな風にやさしく分りやすい表現でしたい」・・・と思うからこのように多様な表現になるのかも知れない。

 恐らくその番組だけで他からの情報が一切ないときや、そのとき一回限りの情報だけを取り上げたときには、混乱が生じることはないだろう。だがあらゆるメディアが時を置かずして、さまざまないわゆる「分りやすい表現」で同じような地域の雨量情報を垂れ流すのである。

 30分の激しい雨量、一時間雨量、降り始めから今までの雨量、降り始めから雨あしが治まるであろう時までの予想雨量などなどが、これでもか、これでもかと私どもに伝えられるのである。もちろん私たちがその情報をきちんと聞き分けて、30分雨量なら2倍、一日の雨量なら24で割り算するなどの方法で、各情報を自分で比較できる一定の単位に換算すれば足りるとは思う。

 だが100ミリだ300ミリだ1000ミリだなどの情報が、時に風速、時にがけ崩れ、時に台風の進路などなどの情報と一緒くたになって、のべつくまなく私たちの耳に入ってくるのである。それを「報道する側の混乱」などとあっさり言ってしまうのは間違いだろう。もしかしたらきちんと理解できていない私たちが悪いのかも知れない。

 だがこうした情報が整理されないまま流れ込んでくるとき、一つの反応が起きる。その情報の真意が届かないことである。150ミリも1000ミリも違いを感じなくなってしまうことである。1000ミリと言われてもそれほどの心配はないと分ったとき、150ミリになんぞ警戒する必要はないからである。200ミリとの情報が大洪水の前触れになるような情報だとしても、数値の意味が身の裡に染み込んでこないのである。

 今の伝達方法が間違いだと言いたいのではない。ただどこかで「きちんと皆が理解できる伝達方法」を考えておかないと、現在の報道されている雨量情報は聞く人に正しい意味を伝えられないまま麻痺してしまうのではないか、そんな気がしているのである。


                                     2015.9.25    佐々木利夫


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雨量の混乱