「我思う、ゆえに我あり」、これはデカルト(1596〜1650)が、著書「方法序説」の中で語ったとされる有名な言葉である。哲学という分野を初めて知った高校生の、そして「哲学に興味がある」ことを一種の衒学的な見せびらかしとして身にまとうことを覚えた私の、最初に覚えた言葉だったような気がしている。

 いかにも「分りやすい」言葉であり、「理解できた」と錯覚できるような言葉であった。自らの存在はどんな形にしろ、「自分を考える自分がいる」と思うこと、「自らとは何者なのか」と考えることの中にあると、高校生だった青二才はこの言葉に奇妙に納得していたことを覚えている。この言葉を知ったことで、自身があたかも哲学者の端くれに仲間入りができたような、そんな思いを抱かせてくれた言葉であった。

 しかし歳を重ねるにつれ、「我思う」のような観察方法を自覚する人なんて、そんなにいるだろうかと思うようになり、「自分が何者か」なんてことを考えなくたって人間は人間として生きていけるのではないだろうかと考えるようになってきた。そしてそれを更に推し進めていくと、「我思う」なんて七面倒くさいことを考えなくたって人間は人間なのだし、逆に言うと「我を思わない者」は人間であることを否定されるのだろうかとの疑問まで抱くようになってきた。

 「我を思わない人」のような存在を軽蔑するというのではない。「我を思う」人間もいるだろうけれど、「思わない人間」がいたっていいではないかと考えるようになってきたのである。そして「思う人」、「思わない人」がごちゃごちゃに入り混じって構成する世の中、それが人間社会であり人間関係と呼ぶのではないだろうかと思うようになってきたのである。

 そしてもしかしたらデカルトの残したこのメッセージが、後の人に間違ったしかも大きな影響を与えてしまったのではないかと思うようになってきた。それはこの言葉が、人間を二分するという考えを是認する方向につながっていくように思えたからである。「我思う人」が「我」として存在すると認めることは、当然に「我思わない人」を「我としては存在しない」とする思いへと連想させる。つまり「我である人間」として存在する人、存在しない人に二分する考えを承認する方向へとつながっていくように思えたからである。

 デカルトが間違ってたとは思わない。「あらゆる存在を疑うことはできるけれど、『我を考えている自分』という存在だけは疑うことはできない」とする根源的な思いは、もしかすると「人はどこから来て、どこへ行くのか」を探るための、とても重要な問いかけになっているのかもしれないからである。

 ただ、考えようによってデカルトのこの言葉は、「我思う人」と「思わない人」の分別を意識的に仕組もうとする側の手段としても活用できると思うようになってきた。

 「思わない人」をもう少し分別してみよう。その中には「思わなかったけれど思う必要を感じなかった人」もいれば、「たまたま思う必要のある場面に出会わなかった人」もいることだろう。だが極端に言うなら「思うことそのものができない人」もいるだろうことを否定できない。そういう側に重度の精神障害者などが含まれるのだと、前回書いた精神障害者を多数死傷した加害者は思い込んでいるのではないかと私は強く感じている(別稿「障害者の排除」参照)。

 私には「我思う」というような当たり前の感情を抱けないような存在は、存在そのものが許されないとするような考えに、デカルトの言葉は支持をしているように思えたのである。もちろん障害者を死傷した加害者がデカルトに信奉していたとの情報は伝えられていないし、また影響されていたとの話も聞いてはいない。

 私たちは歴史上、「異質を排除する」ことを余りにも当たり前のこととして認めてきた。そうした考えに、デカルトのこのメッセージは結果的に支持を与えていたのではないだろうか。それはデカルトの本意ではなかったかもしれない。デカルト自身にしてみればそうした解釈をされたり利用されたりすることは迷惑な話であり、本意は真っ向から対立する思想に基づいてこの「我思う、ゆえに我あり」を思いついたのかもしれない。

 それでもなお私は、デカルトのこの言葉が大きくはヒトラーや宗教対立、はたまた民族対立や国家対立などのいわゆる「異質の排除を是認する思想」に、卑近な例では劣性遺伝子を持つ者や少数者などを排除するなど、現在まで続く差別の理論に正当性を与えているように思えてならない。

 たとえそれがデカルトの真意とは異なった利用であり間違った使われ方であったとしても、この言葉の持つ「分りやすさ」、「説得のしやすさ」などが、世の中に与えた影響はすさまじく大きかったのではないだろうか。

 この言葉は分りやすいと書いた。それでもなお私はどこかでこの言葉の意味をきちんと理解できていないようにも思っている。「私は存在しているのか」の問いかけは、もしかすると私自身に対する生涯賭けた堂々めぐりの問いかけなのかもしれない。それにしても「我思う・・・」とは果たして「我の『何』を思う」ことなのだろうか。


                                     2016.12.24    佐々木利夫


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我思う、ゆえに我あり