先週、人類は生物としては例外の種であり絶滅危惧種だと書いた(別稿「殺し合いの遺伝子(4)」参照)。荒唐無稽な思いだと言われようとも、それはそれで私の意見であり敢えて批判を受けることに抵抗はない。必ずしも人類だけを特定したわけではないのだが、書いているうちにもしかしたら「この地球に栄えている生物」そのものが絶滅危惧種なのではないかと思うようになってきた。

 それは、現在の地球における現在の種が約870万種と言われているのに対し、絶滅した種は50億とも500億とも言われているからである(冒頭に引用した別稿エッセイ参照)。つまり「命」そのものが絶滅を運命付けられた例外的な形態だったのではないかと思うようになったのである。だから命とは偶発的で一過性のものであり、誤解を恐れずに言うなら一種の間違いによる発生だったのではないかと思えたのである。

 もちろん太陽系そのものに未来のないことははっきりしている。それがたとえ数億年を単位とする未来のことであるにしても、いずれ太陽は赤色矮星として地球の軌道にまで膨張し、その後冷え切ってしまうことは予想されている。だから地球の運命もまたそれまでの期限であり、そのことは同時に地上に生存している生命そのものの絶対的消滅、完膚なきまでの絶滅を示唆している。

 ただ絶滅危惧種という考えは、その時々における地球環境に適合できない種が消滅してしまうことを意味している。それは逆に言うと、環境に適合できる種は生き残っているということである。太陽系の消滅や地球の消滅は環境の変化というよりも、環境そのものが消滅してしまうことを意味しているから、種の絶滅という考え方とは異質なものであろう。

 生物そのものが絶滅危惧種ではないかと考えたのは、絶滅した種が圧倒的多数であることのみによるものではない。生物そのものが単一の種から発生していると思われたからである。生命の定義を私はなんとなく理解しているだけで、一つの事実を除いて具体的にはまるで知らない。雌雄だとか死、更には生殖という形での自己複製能力などという言葉を聞くと、何となく説明がついてしまうような気がしている。しかし、一方においてそうした言葉に当てはまらない例外的な形質を持つ生物が現実に存在することも否定できない。だからと言ってそうした例外は生命でないと断ずることも難しい。

 私は先に生物の定義を知らないと書き、その中で「一つの事実を除いて・・・」と書いた。その一つとはDNAである。現在地球上に存在する生物はすべてDNAで構成されている。DNAの基本的仕様や仕組みについても、生命同様きちんと理解しているわけではない。だが生物のすべてが細胞で作られており、それに例外なくDNAが含まれていることに違いはないだろう。DNAはその生物の身体を構成する設計図だと言われており、だとするならDNAのない細胞というのはありえないことになるからである。

 このことはつまり、あらゆる生物は「DNA」が基本になっており、数百万か数百億かはともかく、多様な種も結局はDNAの複雑な組み合わせなり変化によるものだということである。つまり、生命とはDNAの固まりの持つネットワークとも呼べるような特性であり、そうしたDNAのもつ特性を私たちは生物そして命そのものと呼んでいるということである。

 私は命とはDNAであると定義した。それはそのまま、「DNAでないものは生物ではない」と宣言したことでもある。だがそうした定義はどこまで正しいのだろうか。そうした定義はもう少しきちんと検証しなければ証明にはならないのではないだろうか。それは私たちは「命」なり、その命を基本とした生物というものをどこまできちんと理解しているかへの疑問でもある。

 私たちは「生命」の判断を余りにも地球的に考えすぎている。こんな議論に持ち出すのはふさわしくないかもしれないけれど、SFを含めて私たちは空想の世界に様々な生物を考えてきた。でもその空想した生物のイメージは、どこまでも私たちの見ている人間なり地球生物の範囲を抜けられなかったのではなかっただろうか。

 多少SF分野に興味を持っている私だが、地球型生命に囚われない命の意味について必ずしもきちんと考えたことはない。だが互いの意思が納得できるものとして通じるかどうかはともかく、人間に通じる(その理解が場合によっては人間にとって不都合な結果であるにしろ)ものとして宇宙人なり宇宙生物は考えられてきた。目や手足があり、身長も体重も、また生と死が存在することも含めて、その姿が人間の仮に半分にしろ数倍にしろ、私たちの基準にあてはめても納得できる範囲内のものとして宇宙人なり宇宙生物は存在してきた。

 見るともなく見ていたNHKEテレの子ども番組に、「銀河銭湯 パンダくん」があった。主人公である人間の男の子の回りには人間でない様々な仲間がいて、それらの互いの交流が物語となっている。そうした会話のできるいわゆる「生き物」の中に岩があった。岩の固まりそのものが生き物として主人公と会話しているのである。もちろんそれは現実的にはあり得ない単なるドラマだとすることで足りるだろう。でも、私たちは岩の塊が、例えば数年間に一度呼吸し、数十年に一度我々の知らない食事をし、そして数百年に一度分裂して子どもを生み、数千年かけて生涯を終えることなどの生涯をくり返していたとしても、それを認識することなど想像もつかない。

 また私たちは、意思の交流のできない透明な生物がいたとしても、その存在や意思を認知することはできないだろう。四次元世界に住む寿命数秒、もしくは数億年の生物、目の当たりに確認できる個体ではなく例えばソラリス(レムのSF小説)のように、惑星そのものが何らかの意思を持っているなどを理解できるだろうか。そう言いつつ、それでも私は私の抱く生物のイメージが、地球生物に類似しているとの固定観念に縛られているような気がしている。考え出すと生命一つとっても、その意味については混沌から抜け出せない。

 考えれば考えるほど生物はDNAとは無関係になってくる。地球そのものが一つの生命体と考えることだって可能なのだとするなら、宇宙もまた生命体であり真空もまた同様に考えることだってできる。それはそのまま、生物と無生物の境界がなくなってしまうことでもある。

 そう考えたとき、生物と無生物を分ける一つの基準としてDNAを持ってくることも、あながち無理な発想ではないようにも思えてくる。それは私たちはこれまで、ある基準を定めその基準に従って右か左かを決定してきたからである。右ならば生物、左ならば無生物、そんな二元論を人は昔からくり返してきた。仮にその基準がその時々の人々や権力や金持ちなどによってぶれることがあったとしてもである。

 DNAにぶれはないのか、そこのところも私には自信がない。ある物質が、「DNAに類似しているけれどもDNAとは断言できない」、そうした曖昧な場合がありうるのかどうか私は知らない。だから否定も肯定もできないけれど、こうした二元論で地球生物特有の定義に一応の結着はつけられるような気がする。

 ただそんな風に考えてくると、DNAこそ命であると考えたのは余りにも狭隘だとも思えてくる。DNAが命なのだと考え、そのことが仮に正しいとするなら、私たち(というよりは地球に存在する生物の全て)は、ただ一種のDNAから発生し進化したことになってしまう。だとするなら地球に存在するいわゆる生物は、仮にどんなに複雑で多様性に富んでいようとも、極めてか細い一本の糸に源流を持つものだと言えよう。

 なぜならそのか細さは、DNAが生き残れるような環境にしか適応できないからである。岩石に生命を認めることができるなら、仮にDNA生物が絶滅しても別の生命は残ることができる。もし、真空にも命があるのなら、もしかしたらその命も地球の壊滅とは無関係に永遠に生きつづけることができるかも知れない。だが、命がDNAからだけできているのだとしたら、DNAの絶滅はそのまま命の絶滅であり生物の絶滅である。DNAとは仇花なのか、それとも栄光に満ちた絢爛豪華な未来なのか私に定義できるわけではない。

 しかし私は、少なくとも今の地球はDNAが自滅するような方向へとまっしぐらに向かっているような気がしてならない。そしてその第一の元凶が人という生き物であることも否定できないように思える。たとえそれがあらゆる生命の終りではなく、単なるDNAの終焉に過ぎないとしてもである。


                                     2016.11.5    佐々木利夫


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DNAと生物