人は殺し合うことで生き残ってきたのではないか、殺し合いの性質が遺伝子の中に組み込まれていて、それが生き残るという進化を支えてきたのではないか、とこれまで三回にわたって書いてきた(別稿「殺し合いの遺伝子(1) (2) (3)参照)。

 そうした性質が継続されるかどうかの基準は善悪ではなく、単に生き残れるか否かに象徴されるものだったのではないかと感じた。そうした思いにはそれなりの批判はあろうけれど、私にはとりあえず納得できるものだった。だから前回でこのテーマに関する私の思いは一応まとまったものと考え、このエッセイはそこで打ち切るつもりだった。

 ところがこうした殺し合いの性質が生物の意思として子孫へ引継がれ、そしてそのことが「進化の基礎」だとする結論に、どこかすっきりしないものを感じてしまったのである。

 適者生存、自然淘汰、呼び方は色々だろうけれど、その時々の地球環境に適応できた生物だけが生き残ってきたことは否定できないだろう。適者が生存し、不適者は絶滅への途をたどる、そうした進化の道筋は事実として認めざるを得ないと思う。

 だがしかし、適者であることの形質、つまり生き残りの術を持つ遺伝子がその生物の意思として子孫へ引き継がれ、その結果としてその種が生き残りかつ繁栄してきたとする筋書きが、どうにもすんなりと身に沁みてこないのである。適者生存の経過なり結果を否定したいのではない。ただ適者となる遺伝子がその生物の意思として子孫に引き継がれ、だから生き延びてこられたのだとする考えがどうにもしっくりこないのである。

 しっくりこない原因の第一は、地球の歴史の中で絶滅した種のあまりにも多いことであった。そして二つ目は、仮に人類を最高の知能集団と呼ぶことを認めたとしても、どうして人類に近接した知能を持つ生物が共に進化してこなかったのだろうかという疑問であった。

 まずは絶滅の問題を考えてみよう。適者生存というのはその名の通り適者が生き残ることである。そして私は適者であることの遺伝子が子孫に伝わり、それがその種としての生き残りにつながったのだと結論づけた。だとするなら適者になれなかった生物、適者になるための遺伝子を持た(て)なかった生物、更に言うなら適者への道を模索する努力をしなかった生物は、そのまま絶滅への途をたどるしかないことになる。

 そうしたとき、「生き残れたこと」そのものは理解できるとしても、そのための遺伝子とは何なのだろうかと思ったのである。それはどこかで「生き残る意思」というか、「生き残る努力」というか、更には「環境に適応できる能力を模索する努力・能力」といった形質をもつ生物が発生したということなのだろうかと考えたのである。

 ただ少なくとも「そうした形質を持つことへの意思」ではないだろうと思ったのである。例えば寒冷に向かう環境の中で、たまたま毛深いという形質の遺伝子が種の生き残りに寄与したことは事実なのだと思う。だがその生物が、「我が上皮に毛皮よ生えろ」と呪文を唱えたからではないだろうと思ったのである。ましてや毛皮の発生を神や悪魔に祈ったわけでもないだろう。

 地球の生命は、その歴史の中で5回にも及ぶ大きな絶滅の危機を経てきたと言われている。そして発生した生物の90〜99%がそうした経過の中で絶滅してきたとも言われている。絶滅した種の数は、50億とも500億とも言われる。現在生き残っている地球上の生物は約870万種と推定されているらしい(2011.8.23、アメリカオンライン科学誌 プロス・バイオロジー発表の論文)。それはつまり、地球における生物発生と分化の歴史はそのまま絶滅の歴史でもあったということである。

 ということは適者生存の理屈とは裏腹に、地球の生物は膨大な種として発生したものの、その多くは適者の側に入れなかったことを示している。確かに今残っている生物は、「生き残っている」という意味において適者として位置づけられるのかもしれない。だが、適者であることを選択したから生き残ったのだろうかと考えたとき、単に勝手な変化を無差別に繰り返していただけだったのではないだろうかとの思いが強くなってきた。たまたま毛皮のコートをまとって生まれた生物がいて、たまたまその時の環境が寒冷だったという偶然が重なったことで、たまたまその生物が生き残っただけにしか過ぎないのではないかと思ったのである。生まれたのが砂漠のど真ん中だったなら、その生物は間違いなく絶滅へと向かうことになる。

 ある生物が「毛皮のコートを身にまとって生まれたい」、もしくは「そうした形質の子孫を生み続けたい」と願うような意思を持ち、それが遺伝子として伝わるようになったとは私には思えない。毛皮のコートをまとったり、首が長くなったり、時速数十キロの俊足などの肉体の様々な変化は、遺伝子の突然変異によるものだと言われている。だがそうした変異が、その生物の意思の力で生じたとはとても思えない。

 地球の歴史を見ると、発生した種のほとんどが絶滅していることが分る。それは突然変異により発生した新種のほとんどが生存に適合していなかった、つまり突然変異の多くが新しい種の生き残りに寄与することはなかったことを示している。それはそのまま、突然変異そのものが生き残りとは無関係なランダムな変化として起きたことを意味しているのではないだろうか。適者が生存したのではない。突然変異によって起きた形質がたまたまその時の地球環境に合致したからに過ぎないのではないか。だから決して適者になれるように、遺伝子が変異したのではないということである。

 このことは第二の疑問である知性の断絶にも言えるような気がしている。生物の知能がどの程度まで連続しているのか、それは分らない。ただ例えば飼い猫とライオンとは、もちろん種として違うことは理解しつつも、どこか猫の仲間としては連続しているような気がしている。魚も鳥の仲間も、それぞれに種が異なることで形質が違うことは理解できつつも、どこかで近縁の種として連続している部分があるように思える。

 だが、生理的にはともかく、人間の持つ知能は他の動物とはまるで違うように思えてならない。その違いこそが人間の偉大さであるとか、ホモサピエンスとしての有能さなのだと言いたいのではない。動物はもちろん、植物にも知性はあるのかもしれない。でも人間だけが人間以外とはあまりにも異質な知性を持っていて、中間に位置するような知性の存在が感じられないのは変である。

 もちろんチンパンジーが人間に似たような真似をしたり、ゴリラの仲間が幼児並みとはいいながらも人間に類似した知性を持っているなどの話を知らないではない。それでも人類の知性は、人間以外とはまつたく切断された異質さを持っているような気がしてならない。

 先にも述べたように、そのことをもって人類の優秀さを示したいというのではない。あらゆる生物が、似たような知性を持つ中で、どうして人類だけが異質なのだろうかと考えたとき、もしかしたら知性を持ったことが生物の進化として間違いだったのではないかと思ったのである。つまり知性もまた突然変異による一形態の変化にしか過ぎず、これまでに絶滅した多くの突然変異と同様に、生き残りとはまるで関係がないのではないかと思ったのである。

 生物の進化は突然変異によるものだと書いた。そして突然変異で発生した種の90数パーセントが絶滅とリンクしていることにも触れた。だとするなら、今のような知性は人類に発生したランダムな突然変異の一つに過ぎないと考えたほうが、他の生物が人類に近接する知性を獲得していないことの説明になっているような気がしてくる。つまり、知性の獲得は突然変異ではあっても進化の結果ではなかったかもしれないということである。

 人類の得た知性を他の生物のそれとどのように位置づけたらいいのか、いささか迷っている。ただ、人類の発生はこの地上における僅かな期間のできごとでしかない。アミーバーや昆虫や恐竜や鳥や魚などなど、生物は数百億年を経てその命を全うしてきた。人類の知性はそうした中の例外として、僅か数万年の歴史しか持ち合わせていない。つまり知性ある人種というのは、実は新種なのだということである。

 何が言いたいのか。ここにきてやっと気がついたような気がする。知性を持つ人類という種は、たまたま偶発に発生した臨時の種だということである。今の人類もまた過去に絶滅し、現在も絶滅し続けている90数パーセントの生物の一つでしかないということである。数億年数百億年を生きて来た生物に知性の獲得は必要なかったのである。知性は生き残りには役立たないと歴史が証明しているのである。地球に生物はこれからも生きつづけることだろう。だが人類は地球の歴史にきらめいた線香花火のような偶発的生物でしかない。生物としての人類はクロマニヨン人の時代で終焉を迎えたのかもしれない。

 多くの絶滅した種と同様に、あと数百年、数千年、数万年で知性を持った人類もまた絶滅するだろう。そのことは知性獲得が生き延びる手段にはならないことを、人類以外の生物が進化の歴史として示しているからである。そしてそうした人類の絶滅への兆しは今の地上に、加速度的に現れてきているように私には思える。


                                     2016.10.30    佐々木利夫


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殺し合いの遺伝子(4)