前回(別稿「偏見の意味するもの(1)」参照)は、偏見は偏見する側の問題なのか、それとも偏見を受ける側、もしくは偏見を受けていると感じている側の問題なのかと疑問を投げかけたまま、中断してしまった。そのことに「偏見の基準はあるのか」との思いを組み合わせると、偏見もまた連続する様々な意見の中での線引きを求める作業なのだろうかというジレンマに陥ってしまう。それはそのまま、判断の基準に「正しさ」とか「中立」といった観念を置き、それに多数者の意見という一種の擬似的・技術的な基準をどんな風に整合させていったらいいかの疑問でもある。

 もちろん偏見には、「間違った評価によってある事実を捻じ曲げてしまう」という側面もある。その結果として事実の経過や人々の思いを間違った方向へと誘導したり強制してしまうことだってあるだろう。ならばその決断なり判断が「正当な評価」と言えるなら、それは「正当である」という限度において偏見ではないと言えるのだろうか。ならば「正当」とは何だろう。

 偏見によって事実が間違った方向へ誘導される場合があると書いた。それは「ある基準による間違った方向」を、本人が望ましいものとして納得していた場合にも、その方向は間違っているとして糺さなければならないのだろうか。「偏見を糺すことは正論」なのだから、たとえその正論が気に食わなくとも人は正論に従わなければならないのだろうか。

 もし、「従わなければならない」のだとしたら、人は自らの意思を捻じ曲げてでも正論であることに束縛されなければならないことを意味している。そうした方向は果たしてルールなのだろうか、それとも約束なのだろうか、更に言うなら社会の潤滑油なのだろうか。

 と、ここまで考えてきて、もしかしたら私はこうした考えがとんでもなく間違った方向へ進んでいるのではないかとの思いがしてきた。それは先月4回にもわたって書いてきた「殺し合いの遺伝子」の発想にもつながるものであった。私はそこで、人は殺人の遺伝子を持っていると断じたのであり、それはそのまま今回のエッセイにおける「偏見もまた人類に内在する性質そのものではないか」との思いと共通するものであった。

 つまり、私たちが常識的に「悪」だと思い込んでいる様々は、もしかしたら人間を人間たらしめる要素そのものになっているのではないかと感じたのである。人の持つ「悪」を数え上げることは難しいとは思うけれど、例えば殺人、例えば偏見、例えば憎悪や暴力や残忍さ、更には嫉妬や盗みや不倫などなどいくらでも上げることができる。これらすべてを「悪」の範疇に押し込めてしまうのは、余りにも安易過ぎる判断かもしれない。だがそのどれもが少なくとも「望ましくないもの」として私たちが理解していることは納得できるだろう。

 そして同時に、そのどれもが人間である私たちが抜きがたく持っている極めて自然な性質だということである。私たちはそうした当たり前に持っている性質を、どこかで「悪」と位置づけることにした。それは恐らくそうした性質に「道徳」という物差しを当てはめたからであろう。

 悪と位置づけたことが誤りだと言いたいのではない。諸々の「いわゆる悪」を人間の本質だからとして承認し、納得すべきだと説得したいのでもない。ただどうしても、「悪もまた人間の本性である」ことを、抜きにしてはこの偏見の議論も進まないような気がしてならないのである。本性が自然だからと言って、道徳という物差しが不自然だと言いたいのではないけれど、道徳だけを基準にして断ずることに違和感があるのである。。

 「偏見」というテーマからは離れてしまったけれど、人が持つそうした本性とも言える「悪」を、道徳という枠だけに当てはめてしまうのは、次元の全く異なる積み木を無理やりつないでしまうことになってしまうような気がしてならない。

 世の中に偏見と呼ばれている事象は数多くある。例えば水俣病は「うつる」と言われて患者が疎外されたのは偏見だと抗議された。でも原因も対策も分らないときに、とりあえず健常者がとり得る最善かつ万全の対策は患者と接触しないことではないだろうか

 原発事故のため福島から移住してきた住民や福島産の野菜などが、放射能汚染を理由に疎外されることが偏見だと言われた。だが放射能による汚染が「政府の安全基準値」だけでは信用できないと考える人が、汚染の可能性が残っている人や物との接触を避けようとする行為は果たして偏見なのだろうか。

 幼稚園児の騒ぐ声が耳障りだとの訴えが、「子どもは将来の宝であり、可愛い者だ」とする立場から偏見だと決め付けてもいいものだろうか。ゴミ処理場や葬儀場や核廃棄物処理施設などが近隣に建てられることに反対する主張が、「公共的な要請に反し、安心安全な基準を定めた」ことを理由に、住民のエゴで偏見だと言い切ってもいいのだろうか。

 一つには「受忍限度」という考えがあるのかもしれない。仮に被害があったとしても、一定限度内の被害であれば我慢すべきだとする考えである。しかし仮にその被害が「単なる不安」、「個人的な妄想」、「いわれなき恐怖」などなどに基づくものであったとしても、そのことを理由に「だから偏見、だから悪なのだ」と断じていいものだろうか。そして不安や不満を感じている人が100人に1人、1000人に1人だったとしても、その数が少数であることを理由に、その訴えを無視してしまってもいいのだろうか。

 ヒトラーは一人で独裁者になったのではない。ドイツ国民の多くがユダヤ人排斥や戦争継続を支持したのである。それは「多数人の偏見」なのだろうか。日清日露戦争での勝利に浮かれ、日本人はこぞって提灯行列で気勢をあげた。「真珠湾を忘れるな」の声にアメリカの多くが日米戦争に同調した。大衆もまた、偏見を持つのだろうか。

 人類は直立歩行を始めて以来、見知らぬ他者や対処する術を知らない事故や病気、経験したことのない様々な災厄にぶつかってきた。対処する手段を持たない人々は、警戒し身構える、とりあえず危害を加えられると考えて排除する、近寄らない、逃げるなどの手段を選ぶしかなかった。それらはすべて迫り来る危機への無知に起因しているのかもしれない。だが、人はそうすることで危機を免れ生き延び、そして種をつないできたのではないだろうか。

 無知であることを軽蔑されてもいいだろう。知ろうとしない愚かしさだと哀れまれるのもいいだろう。だが人は万能ではない。人の無知をしのぐ災厄が、間断なくしかも山のように押し寄せる現実がある。立ち向かう人間の知識などまさに蟷螂の斧でしかない。でも開き直って言うなら、人は偏見で生き延びてきたのである。偏見が人類の生き方だったのである。偏見は言うなら人が生きるために必要そして不可欠な手段だったのである。危うさの根本や原因を判断する以前に、まずは「君子危うきに近寄らず」を実践することの中に偏見が存在していたのであり、だから生き延びてこられたのである。

 偏見もまた人類の持つ本性の一部だと書いた。それはそのまま人が進化の過程で獲得した生き抜くために必要な手段だったことになる。偏見は特定の人にとっては悪かもしれないけれど、人は偏見に助けられて数万年、数十万年、数百万年という時間を生き抜いてきたのではないだろうか。だから偏見を「偏見ゆえに悪だ」と断ずる風潮は、それこそが偏見なのではないかと思ってしまう。

 偏見もまた「偏見であること」の検証を超えて、そこで終わることなく偏見を理解し偏見に至った道筋をたどることが必要だと思うのである。そして偏見を「許されない悪」として一刀両断に断ずるのではなく、人類が共に歩んできた大切な友人だったことをそこへ重ねる必要があると思っているのである。


                                     2016.12.2    佐々木利夫


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偏見の意味するもの(2)