老いがそんな思いを誘うのか、それとも老いることそのものが否応なくそうした思いへ結び付けてしまうのか、齢70数歳になると、どこかで死を意識するようになる。それは必ずしも「我が身の死」に限るものではない。むしろ、これまであまり考えようとしなかった「抽象的な死」への思いである。

 生物に死があることは、誰もが知っている当たり前のことである。どんな生物もいずれは死ぬ、それは私たち生物が地球上で「命」というものを獲得したことの裏返しでもある。命を得たことは、同時に死を得たことでもあるからである。そして誕生から死までの期間を人は寿命と呼び、種や個体の違いそれぞれに差があるけれど、やがては確実に終焉を迎えることを知らされてきた。そうした中で不死を願う人も数多くいただろうけれど、少なくとも私の知る限り一つの例外もなく個体は死をもってその終焉を告げてきた。

 私がこの「命の質」というテーマを思いついたのは、最近の死を巡る思いが一義的に決められなくなっているように思えてきたからである。ざっくばらんに言ってしまえば、「脳死」と「心臓死」の違いによるものである。そしてこの違いを突き詰めていくと死には複数の考えがあることに到達し、それはそのまま「死」がどうして一義的に決められないのかという疑問へとつながっていく。

 もちろん脳死以前の死が一義的だったかと問われるなら、必ずしもそうではないだろう。生きている状態を100とするなら、恐らく「死」はゼロを示すと考えていい。「生きている100」をどんな基準で示したらいいのか、私には分らない。風邪をひいてクシャミが出ている状態なら98、ガンにかかっているけれど本人に自覚がなく医師の診断も受けていない状態なら49、余命宣告を受けてホスビスのベッドに寝たきりになっている状態は25、などと評価していいのかと問われれば、それもやっぱりどこか違うような気がする。

 客観的に生きているのなら、仮に動脈瘤が破裂寸前の状態にあったり、ガンの手術のために入院していたとしても、はたまた交通事故で昏睡状態にあったとしても、まだ生きているのならその人の状態は100と判定してもいいではないかと思ったりもする。他方、死をゼロとする評価にはそれほどの違和感はない。ゼロはゼロであり、命のゼロこそが死だからである。死は不可逆的な現象である。死の淵から生き返ったという人の話を聞いたことがあるけれど、それは単なる誤解や誤診によるものであったろう。その死は決して「死そのもの」ではなかったということである。

 例えばここに臥せっている一人の老人がいる。往診に来た医者が家族の前で「ご臨終です、○時○分」と告げる。泣き崩れる家族。そんな誰もが知っていて納得できている死のパターンにだって、果たして医師の告げた時刻が正確な意味での死の時刻、「生命のゼロ宣言」としての時刻なのだと理解していいのかと問われるなら、必ずしも割り切れないものがある。

 多分医師は、聴診器を老人の胸に当て心臓の鼓動を確認したことだろう。そしてその鼓動が止まり、次いで呼吸が停止し、更には懐中電灯などの光を当てて瞳孔の収縮がないなどのチェックをしたことだろう。そしてその上で臨終の宣告をしたのだと思う。だからと言ってその宣告が完全な死の瞬間を示していると言えるのだろうか。

 医師だって時には死の判定を間違えることがある、そんなことを言いたいのではない。死者が棺の中で蘇ったという話を知らないではないけれど、そんな間違いを医師がしでかすことがあるという疑念を言いたいのではない。

 100を完全な生、ゼロを死と定義するなら、1や10の状態は「死ではない」ことになるのだろうか。医者は恐らく、100とは言わないまでも、少なくとも70や80の状態へと戻る可能性を持っているかどうかを考えて死を判定したのではないだろうか。心臓が止まっても皮膚や角膜や内蔵はまだ生きており爪は伸びていく、それにもかかわらず「決して生きている状態へ戻ることはない」との確信が、臨終の判断へ結びついたのではないだろうか。つまり、臨終の宣告もまたゼロ状態を認定したのではなく、生へと戻ることはないと考えられた「ゼロにいたる過程」のある一時点の判断にしか過ぎないのではないかということである。

 死は誰でも知っている。そして誰にも死は訪れる。「生きているとは何か」についての疑問は様々あるけれど、死者については知っている。だがそれは果たして、「死を知っている」ことになるのだろうか。

 考えてもみてほしい。死は死者しか知ることができないのである。そして死者は自らの経験した死を、生きている者に語ることができないのである。それはつまり、生きている者は誰一人死を経験したことなどないということである。死を想像することはできる。でもそれは単なる想像であって死そのものの経験ではない。私たちはいずれ必ず死ぬ、そのことは100パーセントの確実性をもって言える。だが、それでも決してその死を経験することはできないのである。

 病気、または事故などで意識が薄れていく。そんな時に、「あぁ、私は今死ぬのかも知れない」と思う瞬間があるかも知れない。だがそれは「死ぬのかも知れない」と思うだけで、死を経験しているのではない。死が死にいたる経過なのか死の瞬間を指すのか、まだ私には分っていない。それでもそうした意識が薄れていく経験から死までの経過を他者に伝えることなど不可能である。

 人により異なるとは思うけれど、意識が薄れていきやがて意識がなくなっていく、そんな現象も死の兆候の一つであろうとは思う。つまり、長短はともかくそうした経過を辿って「意識が完全になくなる」ことが死の兆候だと考えられるなら、生きている者が死を経験することなど、論理的に不可能だということである。

 人間だけに限定しても、人は歴史的に数え切れないほど死を重ねてきた。歴史とはまさに死者の累積の上に成立している現象である。それにもかかわらず、数え切れない死者の中に自らの死を経験した者は一人としていなかったのである。死はどんな場合も「他者の死」でしかなかった。「己の死」はいまだ未知のままであり、私たちは「自らの死」を知らないまま、死そのものの中に埋没されてしまうのである。

                  命とはどこか厄介なものですね。  「命の質(2)」へと続きます。


                                     2016.7.13    佐々木利夫


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命の質(1)