「命の質(1)」からの続きです。

 前回、常識的には命ゼロが死の指標になるだろうと書いた。ただそうは言っても死を判定すると言うことは、例えば医者が判定される他者の命ゼロにいたる過程の、しかもまだゼロではない状況の下でするのではないかと書いた。ただその「ゼロでない」は、皮膚や爪が角膜などまだ死んでいない臓器が一部にしろ存在しているという意味での「ゼロ以前」であった。そはさりながら臨終宣言は、少なくとも心臓や呼吸の停止などを確認した上での判定になっており、宣言された他者が「生き返ることはない」という一種の国民的な了解があって、そうした事実私たちが長い間死の宣告として承認してきたものであった。

 だからその宣告は、私たちの習慣はもとより日常感覚にも沿うものであった。皮膚はまだ生きているかも知れないけれど、その人が再び呼吸を始めたり心臓が動き出したり話し出したりすることはない、そんな確信が「死を承認すること」につながったものであった。そしてそれはそのまま、死の判定をした者に対する信頼に裏付けられたものでもあったろう。

 ただ、死の意味というよりは死者への思いなのかも知れないけれど、個々の死にはそれぞれ質的な違いのあることが分ってくる。まず、自分の死と他人の死が異なることははっきりと分る。死そのものに違いがあるわけではなく、「私の死」も「私以外の死」も、死であることに違いはいない。それでも「どこか違っている」と囁く声が聞こえる。

 前回、人は自分の死を知ることはないと書いたが、そこにも原因があるのかも知れない。他者の死は事実として知ることができるのに対し、己の死だけは経験できないからである。この両者の違いが「死の違い」に影響を与えているような気がする。

 だがそれでもまだ割り切れないものが残る。他者との距離による違いである。他者の死とは自分以外のすべての者の死である。だが私たちは、他者との距離によってその死に違いを感じるのではないだろうか。配偶者や肉親の死も己の死ではないという意味では他者の死に分類される。バングラデシュのテロで日本人7人が死亡したけれど、私にとってみるならまるで関わりのない単なる日本人の死という意味にしか過ぎない。フランスのニースと呼ばれる観光地で大型車両の暴走というテロ行為があり、日本人は含まれていなかったようだがそこの花火大会で84人が死んだ。これも他者の死である。

 特殊な事件でなくとも、交通事故で、がけ崩れで、病気で、老衰で・・・、死はどんなときも日常である。世界ではいつも誰かが、恐らく今も多くの人が死んでいる。大きな事件ならニュースとして私たちにも伝わってくるだろうけれど、日常の死は私たちに無関係に過ぎ去っていく。それでもそれは単に「私が知らない死」に過ぎないだけであって、死そのものが存在しなかったことになるわけではない。

 「私の死」、「あなたの死」、「あの人の死」、と死を三つに分類した人がいるけれど(水谷弘「脳死論」、草思社、P250)、私にはもう一つ「知らない他人の死」もあるのではないかと思っている。そして同じ「知っている人の死」であっても、その者との距離によって様々に分類されるような気がする。

 死を仮に人の死だけに限定したとしても、その死が少なくとも「自分の死」と「他者の死」に分けられることくらいは容易に理解できるだろう。しかし「他者の死」は「隣にいる人の死」から「見ず知らずの人の死」を経て「死んだことすら知らなかった者の死」まで間断なく連続しているように思える。

 そんな時に、突如として「脳死」が飛び込んできた。実は脳死は「死」としては不完全なのではないかと私は思っている。死は生へと戻ることはないという意味で、恐らく「脳死」もまた「死」に含めていいであろう。「死への検証」が複数の専門家により様々な方法でなされ、その結果生き返ることはないと認定されて「脳死宣告」がなされる。そのことに疑問を抱いているわけではない。

 脳死を巡る問題はもちろん自らの死ではなく、他者の死である。だからその死は死の認識ではなく一つの納得だと思うのである。他者の死をどこまで納得として受け入れることができるか、の問題ではないかと思うのである。こうした考えは、これまで抱いてきた私の死に対する認識とは矛盾するかも知れない。死の判定に情緒を加えてしまったからである。死は、純粋に物理的な現象として判定すべきものなのかも知れない。死の判定を利害のない他者たる医師に委ねたということは、そこに情緒による判断を排除し科学的に見極めることを求めたからなのかも知れない。

 我が子の死を納得できないまま、遺影の前に何ヶ月も座り込んでいる母親の話を聞いたことがある。戦後70年を経てもなお、未帰還の兵士を遺骨になっているとしてもそれでも待っている肉親がいるとの話も聞いたことがある。死を「納得」という情緒で判断することは間違いだと、私も頭では理解している。それでもなお私には、肉親や配偶者や婚約者など親しい者の死には、納得という基準が含まれてしまうのは止むを終えないのではないかとの思いが頭から離れないのである。

 死の納得とは、まさに命ゼロを納得することだと思っている。ただそれでも、生と死の間は連続ではない、切断されているとする考えがあってもいいのではないかと思っている。つまり、命には100かゼロかのどちらか一方しか存在していないのではないかということである。命に90とか45などと言った中途半端な位置などそもそも存在しないのではないかということである。

                                     「命の質(3)]へ続きます。


                                     2016.7.22    佐々木利夫


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