「
命の質(2)」からの続きです
前回の末尾に「命とは100もしくはゼロのいずれかであって、途中という半端な考え方はないのではないか」と書いた。もしそうだとするなら死は一義的に決まることになる。だからこれまで何となくにしろ確信的にしろそれなりに理解していた死に対するイメージが、新たに脳死という基準を設けて再定義し直すこと自体に疑問が生じてくる。
私たちは死を当然のこととして知っている。それは「死」がどんな時も先行していたからである。「死」の事実が先にあり、私たちは生きている者としてその状態を「死」と理解する。そのことで一人の個の終焉を知ったのである。そこには「どこで死んだのか、何が原因で死んだのか」などという疑問はあったにしても、死の基準に複数の考えがあることなどに迷うことはなかった。つまり、死は一つだったのである。
こんなときに脳死という考えが出てきて、これまでの私たちの死のイメージを根底から覆すことになった。個人A、Bのいずれが先に死んだかは両者が夫婦や親子だった場合、例えば相続の順位の決定などに影響を与えることはあるかも知れない。だが脳死が出てくる以前の私たちは、個々人の死の判定に複数の基準があることに悩むことなどまるでなかった。
つまりこれまでの私たちが抱いていた死の判定には、目的というものがなかったということである。ただひらすら「純粋な死」のみを判定しようとしてきたからである。それはそのまま、純粋に生への絶対的不可逆性のみを追求してきたということでもあろう。
死は多くの場合他律的である。多くの場合、人は事故や災害や病気や老衰などで人生を終える。それは自己または他者の意思以外の要因による死である。自己もしくは他者の意思が関わる死というと、私には自殺と殺人、そして死刑執行などがすぐに思いつく。これ以外にあるかも知れないけれど、人の意思が関わる死というなら、これらに代表されるだろう。
例えば殺人を考えてみよう。私が特定の誰かを殺したいほど憎み、もしくは「誰でもいいので殺したかった」との無差別な思いによるものでもいいけれど、殺意を持って加害し脳死状態にさせたとする。相手は複数の専門医師による慎重な診断により脳死と判定された。だが遺族や婚約者などはその事実を認めようとしない。被害者は脳死者として人工心肺をつけたまま、ベッドに患者として横たわっている。呼びかけても応答はないけれど、呼吸もしているし心臓も動いており肌は暖かく顔もほんのりと赤い。治療費は健康保険の適用を受けている。
さて、相手を脳死にさせた私はその場で逮捕され、起訴された。情状とか心神耗弱などの減刑要因を考えないとして、私は殺人犯として死刑を宣告されるのだろうか。被害者はベッドの上で人工心肺状況ではあるけれど、呼吸しており心臓も動いている。判定は脳死とされているけれど、私の殺人は完遂したのだろうか、それともまだ未遂の段階だろうか。それよりも何よりも、事件を起こした私の殺意は満足されたことになるのだろうか。
別の事件で、ここに殺人犯がいて死刑の判決を受け、いまその執行がされようとしている。日本の死刑執行は絞首とされているから(刑法11条)、現行法の下では難しいかも知れないけれど、仮に脳死状態になったとして、それを死刑の完了と認めていいのだろうか。そしてその死刑囚の臓器のすべてを移植用の物品として活用してもいいのだろうか。
脳死という概念は、臓器移植を前提に設けられたものである。臓器移植という発想なくして、そもそも脳死という考え方など存在しないのである。放置しておくとやがて機能を失い使い物にならなくなってしまう臓器が、その機能を失う前(生きている状態)に一定の要件の下で死者から生者へ移植することでその生者の命を救うことができる、これが臓器移植である。そのためには「生きている臓器」がどうしても必要になる。ここに「人の死」と「臓器の死」との分断が考えられたのである。
そしてこの中で「脳の死」は他の臓器の死よりも「人の死」に近いと判断されたのである。その判断はもしかすると「脳の死」は「人の死とイコールである」との考えによるのかも知れない。まだ心臓や肝臓や腎臓などが「生きている」としても、それは皮膚が生きていることや爪が生きていることと同じであり、人の生命活動としては「命ゼロ」であるとの判断なのかも知れない。
でも私たちは「納得した死」という観念を離れることなどできないのではないだろうか。だからこそ「移植コーディネーター」という役割を持つ者が存在し、遺族を説得して「納得した死」へと誘導すべく活動するのだろう。
脳死を納得し臓器移植を承諾すると同時に、脳死者の体は突如として「あたかも生きている体」のように扱われる。人工心肺が動き出し、昇圧剤(血圧を上げる薬品)などが注入される。それは移植の了解がなされる前の患者への対応とはまるで違っている。医療関係者の動きは、あたかもその脳死者が生きているかのようであり、積極的な治療まがいの行動が見られるようになるのである。
そうした行為はもちろん臓器を生かすためである。このままでは廃品となってしまうであろう心臓や肝臓を少しでも生きたまま次の患者へ移植できるようにするための措置である。それはまさに生きている患者に更なる完璧な治療を施すような行為にすら見られる。もちろんそれは外形だけであり、実態的には死者に対して単に移植のための臓器の保存手続をしているということなのだろう。それでも見かけ上は生きている者への治療以上の措置に思えるほどである。
私が抱いている脳死者に対するこんな思いは、単なる情緒に過ぎないだろうとは感じている。脳死の判定そのものに疑義を唱えようと思っているわけではない。ただ、脳死を死と認めつつも、心は死を納得できないでいると言う思いを、どこか大切にしたいと思っているのである。
そして納得とは時間なのだと思う。その時間は脳死と心臓死のような短い時間ではなく、数ヶ月、数年にも及ぶ時間ではないかと思う。そしてそれはそのまま、死を乗り越える時間でもあるのではないかと思っているのである。
命の質と題した思いを三回に分けて綴ってきた。第一回の末尾に命とはとても厄介なものだと書いた。そのことはこれまで考えてきて少しも解決していないと分ってくる。私の中では命はまだ厄介なままである。命の質はそのまま命の重さへとつながっていく。つい先日(2016.7.26)、神奈川県の知的障害者施設で未明に、それも50分足らずの間に収容者19人が刺殺され、26人が重軽傷を負うという事件が起きた。犯人は逮捕され、精神障害者は皆殺しにすべきだなどと口走っているという。
命は地球よりも重いと口で言うことは易しい。命に軽重などないと言うこともたやすい。でも近くでは痴呆になった配偶者の介護に疲れて殺意を感じる者がいたり、親族での殺し合いも起きている。また遠くは酩酊運転から戦争や内乱やテロにいたるまで、命はそれぞれに重さが違うことを私たちは事実として嫌になるほど知っている。命は質も重さも違うのである。「命は一つ、違ってはいけない」と言うのは口先だけであって、誰一人口で言うほど信じてはいない。「命の均質」は一種のまやかしであって、事実は異なるのである。そしてそのことは世界の誰もが例外なく身に沁みて感じていることなのである。
そうした質や重さに違いに加えて、脳死が気ままに走り回ることによって臓器が命から分離され、単なる「モノ」になってしまっているのではないかと私は危惧するのである。余りにも「臓器がモノ」になりきっている現状に、私は「チョット待って・・・」、「もう少し考えようよ」と言いたいのである。それはきっと答えの出ない問いなのかも知れない。そしてそれはそのまま「誰かの死」、「移植してくれる人の脳死」を願っている移植待機者の期待を裏切ることになるのかも知れない。それでもなお私は、臓器をモノ化することに「チョット待って・・・」と言いたいのである。それはどこかで「命を弄んでいる」との思いが消えないからである。
2016.7.29 佐々木利夫
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