「間もなく医師と付き合わなくてもよい時代が来る」、そんな思いでニュースを聞いていた。そしてそうした思いに、どこかホッとしている自分がいるのを感じていた。

 それは、人工知能が下した治療方針によって劇的な効果が得られたとのニュースが、最近発表されたからである。人工知能の発達に驚いたわけではない。チェスや将棋の世界で人間を打ち負かせている人工知能の活躍している現代ではあるが、その能力がとうとうここまで来たかとその進歩に感動したわけでもない。そうではなく、むしろ医療は医師の独壇場であるみたいな独善というか驕りの支配するような時代が間もなく崩れていくのではないか、そうした思いにどこか納得している自分がいたということである。

 その報道とは「ワトソン」と名づけられた東大とIBMが共同で開発したマシンが、膨大な医学論文を学習することによって急性骨髄性白血病の患者に医師とは異なる治療方針を決定し、それにより劇的な効果が得られたとの発表であった。

 実はそれほど人工知能に信頼をおいているわけではない。歩くことや物をつかむこと、絵を描いたり文章を書いたり、更には感情を持つことなどなど、人工知能はまだまだ人間の足もとにも及ばないだろうと思っているからである。

 もちろんコンピューターの性能が格段に進歩し、その能力が単なる高速の計算機であることを超えつつあることくらいは理解している。量子コンピューターと呼ばれる従来とは異なる発想のマシンが考えられていたり、統計やビッグデータなどを利用した「単に計算する」のとは異なる方向へと進化しつつあることも知っている。そうは言っても、私がそうしたプログラムの構成や考え方の中味をきちんと理解しているかと問われるならまるで自信はないのだが・・・。

 私が学んだ頃のコンピューターは、加減乗除を高速の計算システムで組み合わせるというプログラムによるものであった。微積分の計算なども複雑ではあるけれど結局は加減乗除を利用した近似値による判断の積み重ねであった。得られた数値が「プラス」なら右の計算へ、「マイナス」なら左の画像処理へなどと分岐させるシステムであった。そしてその分岐を「コンピュータによる判断」と呼んで信奉していたに過ぎない。もちろん分岐を判断する数値の基準は正負に限るものではなく、例えば0.99以下なら右、1.99以上なら左、その中間なら左右とは異なる別計算へと多方向へと分岐させることは可能である。

 そうした判断をモニタ(テレビ画面)に表示された点の移動に使えばゲームになるし、色の識別に使えば絵を描くこともできた。場合によっては相関係数などを用いて特定の商品の販売予測に使うこともできるなど、発想によってはまさに万能とも言えるほどの使途が考えられた。だからコンピュータから吐き出された結果は、時に神託もどきの感さえあったである。ただそうした分岐の判断は人が組んだプログラムによるものであり、判断の速さはともかく決してコンピュータ独自の考えではなかった。マシン自体は判断能力を持っていなかったのである。

 それが最近はその判断をマシンが独自に行えるようになりつつある。人間の保有している記憶そのものを外部メモリーなどに保存できるのではないか、そしてそこから出される思考や判断はもしかしたら「知能」とか「知識」といった範囲を超えて「人間性」とか「意志」、そして場合によっては「魂」と呼ばれるものにまで及ぶのではないかと考えられるようになってきている。その目的は一種の「精神の不死」を目指すものである。そしてその目的を人型ロボットの精巧な発達と融合させるなら、まさに人は「死なない」のであり、使いかたによっては「死者が゚復活する」ことまで考えられるのである。

 こうした変化がどこまで進化可能なのか、私に必ずしも理解できているわけではない。ただ、私の生きている時代に可能となるかどうかは別にして、そうした時代がやがて来るであろうことを予想するのは、そんなに難しいことではない。
 ただそのことはここでは一まず置いておこう。今回の人工知能による治療方針の決定は、そんな方向へのほんの一里塚でしかなく、まだまだ赤ん坊のハイハイの程度にも及ばないと思っているからである。

 それでも私はこうした方向へ医療が進むことに、一種の安堵感を抱いているのである。こうした方向へと医療が進むなら、マシンが音声で患者に色々と質問(問診)し、血液検査結果やレントゲンやMRIなどの画像データの解析などを駆使して治療方針を決定する、そんなシステムへと進化していくだろうからである。その結果必要な投薬が決定され、手術が必要と判断したときには手術ロボットがその施術を行う、そうした方向へと向かうことだろう。私はそうした未来にどこかでホッとしているのである。

 それは現代の医師が人であることを離れてマシン化し過ぎているように思えるからである。患者を診ることによって医者が治療方針を判断しているのではなく、コンピュータの検査結果だけが「診断」だと思い込んでいるように感じられるからである。そしてあたかもモニターの指示に従うのが医者の仕事なのだと思い込んで行動する、そんな道具になってしまっているように思えるからである。

 それだけならそれはそれでいい。医師はマシンの伝達者であり仲介者であるというだけだからである。ところが悪いことに、医者は人であることから離れることができない。個性を持ち、国から資格を与えられ、しかも医師という絶対的な力を自他共に認める人間であることが、患者とのコミュニケーションを凄まじいまでに悪化させているのである。マシン相手なら起きないであろう聞く耳持たずの風潮が発生し、医師の指示に従わないことはあたかも神への反乱でもあるかのように、患者を無視する風潮が広がってきているのである。

 もちろん私が「医師の全部がそうだ」との判断を下すだけのデータを持っているわけではない。また仮にそうしたデータがある程度揃っていたところで、「すべての医師がそうだ」との判断を下すことは間違いだろう。呼び名としてふさわしいかどうか分らないけれど、町医者として患者の親身に接するような、いわゆる「赤ひげ先生」がまだまだこの世に大勢いるだろうことも否定はしない。

 だが医療を巡るシステムがそうさせるのか、それとも患者にも相応の原因があるのか、医療が肥大化していくなかで医師が患者と人間的な接触を保つ機会がどんどん失われていっているような気がしてならない。そしてそれは大学病院のような巨大組織に限らず、診療所のような小規模医療にまで及んできているような気がする。

 何度も言うけれど、そうでない医者が多数存在していることを否定したいのではない。それでも患者と接した医者が、時に患者の質問を封じ、時に聞く耳を持たず、問診もせず患者の顔色さえ見ることなくコンピュータ画面に羅列された数値に目を向けている、そうした現実にぶつかる機会が多過ぎるような気がする。

 現代に限らず医療も一種の経営である。だから短時間に効率よく患者を回転させることが医師の収益につながるであろう現実を否定はしない。ましてや、とりとめない患者の愚痴や、的外れな質問などにいちいち関わってなどいられないとする医師の思いも理解できないではない。もしかしたらそうした結果を生じさせている原因の一つは健康保健医療制度の欠陥にあるのかも知れない。だとするなら結果だけを見て医師を責めるのは筋違いなのかも知れない。

 それでもそんなマシンに支配されているだけの医者なら、いないほうがましである。日本における医師数は約31万人、歯科医師数は約10万人である(平成26年末、厚労省・大臣官房統計調査部)。一口に医者と言っても、ゴッドハンドと呼ばれる神業のような技術を持つ医者から、暴力団と共謀して健康保険の詐欺まがいの不正請求に加担する医者までさまざまであろう。それは医師も人であることからくる必然である。私たちは無意識に医者を万能と過信してしまうけれど、それは大きな間違いであろう。良い医者もいれば悪い医者もいる、それが人間社会の、そして医者もまた一人の人間であることからくる必然である。

 そこに医師と人とは分離してもいいではないかとの発想が侵入してくるのである。それは、現代は医師が人であり、同時に個々人としての個性を持っているというそれだけのことによる弊害が余りにも多くなってきているように思えるからである。現代は、医師が人であるそのことに、患者が疲れてきている時代なのではないだろうか。

                          「医者の要らない時代(2)」へ続きます。


                                     2016.8.11    佐々木利夫


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医師の要らない時代(1)