日本に医師は約31万人もいるのだから、一まとめに神格化したりはたまた批判したりするのは、どちらも間違いだろうと前回ここへ書いた(別稿「医師の要らない時代(1)」参照)。それはその通りである。だが私は、医師は医師であるという意味だけで「信頼される医師であること」があらかじめ資格として要件化されており、内包化されているのではないかと思っているのである。にもかかわらずそうであるべき医師が、最近は患者からどんどん遠のいていっているように思えてならない。

 そうした思いが、人工頭脳を備えたロボット医師の普及をどこかで期待しているのかも知れない。もちろん「マシンによる診断に我が身を委ねる」というような感触は、少なくとも今の私たちにすんなりと入ってこないものがあるだろう。しかし現実は、私たちは既にマシンの言いなりになっている医師に囲まれているのである。そしてそうした医師たちが病気を診るだけで患者を人として診ていないという現実を、まざまざと見せつけられているのである。つまり、マシンの言いなりになっているという現実の下で、その影に隠れて自らを尊大化させている医師という個人の支配下に、私たちは否応なく従属させられているのである。

 医師と患者は、それだけの違いだけで全く異質な位置にいる。しかもそれは思ったよりも大きな距離である。こうした表現は誤解を招くかも知れないけれど、その実体は、支配と服従、主人と奴隷、権力者と従僕の関係に類似しているのである。恐らくすべての医師が、「そんな気持ちで患者と接しているわけではない」と反論するだろう。私もその通りだと思う。医者自身の中に、自らを支配者だと自認するような傲慢な意識があるとは思わない。だが、「・・・そんな思いはない」と思うこと自体の中に、既に自らを強者であると自認する意識が潜んでいるように思う。

 私が言いたいのは、医師が「そう思っているからそれが態度に出る」ということではなく、立場の違いそのものが既に力関係の違いを醸成しているということなのである。医師と患者は対座した瞬間に、医師は「黙って言うことを聴け、俺の指示に従え」という地位を、そして患者は沈黙の従者として地位を好むと好まざるとに関わらず取得してしまっているということである。そうした立場の違いが暗黙のうちに成立していることを、医師自身が自覚して始めて、医師と患者は並列な位置に立てると思うのである。

 医師がマシンの指示に従うだけの機能になり切れるなら、それはそれでいいだろう。医師が人であったとしても、患部だけを見つめて縫合や切除するだけの使い走りになり切れるなら、そうした使い走りを医師と呼べるかという疑問はともかく、それはそれで許せると思う。それは「人」ではなく、単なる「マシン」もしくは「指示に従う者」だからである。

 そんな医者の存在なら、私はここでその存続を否定するつもりはない。使い走りに八つ当たりしても仕方がないからである。ただ、「黙って俺に従えばいい」と思い込む医者がたとえ少数でも存在し、そうした医者に私たちが患者として関わるケースが少しでもあるのなら、そんな医者は要らないと思うのである。

 もしかしたら私は逆に医者に「ないものねだり」を望んでいるのかも知れない。「思うな」ということを要求するのは、不可能を強いることになるのかも知れない。だからこそ私は、人と医師とを分離したいと思うのである。不確かで傲慢な医師という肩書きの「人である存在」を、どこかでマシンたる人工知能と置換できないだろうかと思っているのである。

 優しい医師の養成や人間的な触れあいのできる医師を育てる、そんな努力をしていくことでそうした問題は解決できるではないか、と人は言うかも知れない。だが、そうした教育や訓練が成果をあげる望みはほとんどなく、今やそうした医者を望むことなど不可能であることは、既に現実が示しているのではないだろうか。

 「ピポクラテスの誓い」という言葉がある。医療従事者が患者と接する場合の倫理や人間的な触れあいを伝える言葉だと聞いた。そしてその考えは今でも教育や訓練の現場で伝承されているとも聞いた。ピポクラテスは古代ギリシャ時代の医者の始祖とも呼ばれる人物である。2500年も前から、病気と医者は切り離せないものとしてこの世に存在していた。そして治療する者と治療を受ける者との間に大きな隔絶があると考えられてきた。にもかかわらず数千年を経て医師は未だ、この誓いを守れるまでに成長していない。

 これは医師が人であることからくる致命的な問題なのではないのだろうか。そして人であることの本質的習性によるものなのではないだろうか。ピポクラテスの誓いを人が守ることなど、「世界から戦争をなくそう」と宣言するのと同様に、「善」ではあっても実現不可能な思いなのではないだろうか。それはあたかも人に向かって、「人であることをやめよう」と呼びかけるようなものであり、まさに不可能を強いるもののように思える。だから私は医療を医師ではなく人工知能に任せようと思ったのである。

 介護や福祉などの現場で、「優しさの人工化」が試されるようになってきている。かわいい姿かたちの人形や動物のぬいぐるみが、障害者や老人と優しく応答する、そんな風景が随所に見られるようになってきている。

 もちろんそれは擬似的な優しさである。「心」というものをどう定義すればいいのか、必ずしも私に分っているわけではない。ぬいぐるみの応答はいわゆる「本当の優しさ」ではなく、「優しさのふり」をマシンに教え込むものである。だからそれをプログラム化された「偽りの優しさ」だと言われたら、反論の余地はないように思う。

 でも私たちはどこで「本当の優しさ」を判断しているのだろうか。背中をさすってくれる介護士の仕草が、本当の優しさによるものなのか、それとも報酬を貰うことへの反対給付の行為なのか、もしくはその両方が混在したものなのか、そんなことは誰にも分らない。それでも「邪険にされること」が、優しさとは異なることくらいはすぐに分る。つまり、優しさは本来心の中味を指すのだろうけれど、実体は言葉遣いや態度などから間接的に表示された外見によって理解するしかないということである。そして私はそれで足りると思うのである。だから人工的な優しさであっても、工夫によっては本来の優しさとして十分に伝わってくると思うのである。

 医療はどんどん専門化していく。落語だから、それで現実の医者を評価するのは無理があるとは思うけれど、どんな病気でも「葛根湯」を飲ませるだけの治療しかしない医者の話が登場する。それは、別の見方をするなら、医者はどんな病気にも対処できるほど万能だったことを意味している。だが今は外科、内科、脳外科、泌尿器科、神経科などなど、こんな風に言ってしまったら間違いだとは思うけれど、病気の数だけ専門医がいるほどにも分化していっている。これが医者を狭い視野に閉じ込めている原因なのかも知れない。専門化が、医者は患者を診ることなく自らの専門とする分野の病気だけ診ている、そんな風に思われていることの原因になっているのかも知れない。

 総合診療医と呼ばれる、多数の症状を一人の医者が診察するいわゆる町医者の復活が望まれるようになってきている。それは恐らく、余りにも高度になり過ぎた専門化への警鐘でもあるのだろう。高価で複雑な医療器具や診断技術が日進月歩のスピードで開発され、かたや遺伝子治療にまで進んでいる現代医療の果てなき専門化は、今や止めようがないように思える。

 人工知能はまさに能力的にも技術的にも総合診療医としての能力を持ちつつある。それはプログラムとして個性を超えた普遍的なマシンであり、記憶容量だけがその評価の指針になるのではないだろうけれど、「擬似的な優しさ」にしろそれを覚えこむまでの余力はまだ十分に残っている。

 学習によって様々の能力を身につけ、その能力がコピーされた優秀で優ししく大量生産された人工頭脳ロボット、電気で動くのかそれとも原子力で動くのかは分らないけれど、二十四時間休みなく働くロボットの開発は目の前にある。急患にも夜間診療にも、更には患者の取るに足らない愚痴にも、人工知能は優しくしかも世界一の技術で分け隔てなく接してくれるだろう。


        数週間前に私は「命に混乱している」とここに書いたことがある。どうやら医療にも
       私は混乱しているような気がしている。     「医師の要らない時代(3)」へ続きます。


                                     2016.8.18    佐々木利夫


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医師の要らない時代(2)