医療の専門化は避けられないだろうと、前回書いた(別稿「医師の要らない時代(2)」参照)。それはそのまま医療の肥大化であり、同時に患者の選択肢の拡大でもある。

 他方、医療は報酬を受け取ることによって治療を提供するサービス業である。患者からの要望がある限り、「こんなことができます」、「こんなこともできます」・・・、医療は際限なくサービスを拡大させる方向へと進んでいくことだろう。病気を治し寿命を延ばす、それが患者の望みであり、見返りとして報酬、しかも高額な報酬が期待されるなら、そうした方向へと医療が進んでいくのはビジネスとして当然なことだろう。そんな循環が今の社会には定着しつつある。そして高額な報酬と結びついた医療は、とりあえずは金持ち優遇の状態を醸し出すことになる。そしてそうした状態はいずれ貧富による不公平であるとする貧者からの主張を誘発し、やがて健康保険制度などを通じて普遍的公共的な医療へと波及していく。

 そうした方向への変化がどこまで正しいのか、実は私は混乱している。病気を治す、寿命を延ばすという大義名分が、果たしてどこまで公共的な治療として許されるのだろうかとの思いが、私の中で整理がつけられなくなってきているからである。

 三回にわたって医師は要らないと書いてきた。それは能力的にはもちろん、擬似的にしろ優しさまでをも包含するようになってきている人工知能に、医師の代役を任せてもいいのではないかとの思いからくるものであった。もちろん、人工知能がどこまで人間になり切れるかという疑問は、常に存在する。そして、どんなに進化したところでマシンが人間になることなどできないのではないかとの思いさえないではない。

 それでもなお人工知能にこだわったのは、今の医師が余りにも独善的で患者を理解しようとしないからである。そしてそれは医師が人間であることからくる必然ではないかと思ったからでもある。それは単に私の経験によるものだけでなく、友人知人の話やこれまでに読んだ多くの書籍から受けた印象でもあった(松澤桂子 認められぬ病 現代医療への根源的問い 中公文庫、吉松和也 医者と患者 岩波書店、重兼芳子 たとえ病むとも 岩波現代文庫、ノーマン・カズンズ 死の淵からの生還 現代医療の見失っているもの 講談社、柳原和子 がん再発日記 百万回の永訣 中央公論社、庭瀬康二 ガン病棟のカルテ 新潮文庫、中島みち ガン病棟の隣人 文春文庫、などなど)。

 それは私が抱いている医者の持つ権威への反発にあるのかも知れない。だからその反発はもしかするとへそ曲がりで独善的な思い上がりであり、優しさだけを求める身勝手な我がままなのかも知れない。それでもなお私は、人間臭い医師による接触よりは、医師よりも豊富な知識や能力を有しているマシンがあるのならば、それに治療を任せてしまうのも一つの選択肢なのではないだろうかと思ったのである。

 もちろんそうした方向への進化は、現在の医療システムを否定することになる。今の制度は、医師を頂点としその下に看護師や介護福祉士などといった補助者が従属する形で構成されているからである。もちろん人工知能による医療システムが成立したとしても、医師という制度は残るかも知れない。だがそうした場合、そこに残された医師は現在のように専横的な地位を持つことはない。単に人工知能たる医療マシンの補助者であり、看護師や介護士などと何ら変わらない存在になるだろう。

 私にしてみれば、優秀なマシンの他に優しさだけを持った看護師がいてくれればそれで足りるような気がしている。もちろん看護師が治療に必要な存在であることを否定するつもりはない。診察や手術や投薬などの直接的な行為だけで、医療が完結するものではないだろうからである。治療には、例えば長期にわたるリハビリや入院などと言った、一種の介助的な期間なり手段が必要となる場合が多いことを否定するつもりはない。

 そうした人工知能の参加という環境も含めた治療という過程が、私にしてみるとどこかとても居心地が良く楽しいものに思えてくる。病気が必ずしも完治するとは限らないことくらい承知している。場合によっては治療の方法がなく、入院は単に死を待つだけの手段でしかないということだってあるだろう。

 そうしたとき人は何を望むのだろうか、それもまた様々かも知れない。「死にたくない・・・」と絶叫し続けながら閉じる人生だってあるだろうし、ゆったりと思い出に浸り満足しながら入院期間を過ごせる人だっているだろう。それでも現在知られている最良の治療は、医師よりも人工知能に委ねたほうが安心できるのではないだろうか。

 優しさを基本とした治療と、患者が必ずしも望んでいない治療、更には間違った治療などが、必ずしも対立しているとは言えないのではないかと思うこともある。医師が診断を誤り、そのために誤った治療が行われ、そしてそうした診断の下で一人の患者が終焉を迎える、そんなことがあるかも知れない。また、あえて最良の治療をしないことを医師が決め、その結果死期が早まってしまうというようなことだってないとはいえないだろう。果たして「最良の治療」とは何なのか、そしてそれを決めるのは誰なのだろうとの疑問がないわけではない。

 人生の結末に対する答えが、単なる長生きや延命だけで足りるのか。何のために治療なのか、どこまで治療すればいいのか、そんな判断をするのは本人だけに限られるのだと思わないではない。つまり、人口知能がどんなに発達したところで、それは論文や医療技術や薬学などの集約でしかない。「もう、これでいいよ。ここまででいいよ」とする患者や家族の思いを、果たして人口知能がどこまで理解してくれるのか、そんな疑問も湧いてくる。

 人工知能へ治療を任せるということは、もしかしたら人工心肺につながれたまま単に呼吸しているだけ、心臓が動いているだけ、ベッドに縛り付けられているだけの肉体、そんな状況へ結びつく可能性があるとの思いがないわけではない。それを生きていると言っていいのか、言葉としては矛盾するけれど単に死体を生かしているだけに過ぎないのではないかと思わないではない。死とは何なのか、人はいつ死ぬのか、そんな社会的な、そして哲学的な、更には人の尊厳とも言うべき己の命への思いなどなど、人の思いは複雑であり時に身勝手である。それはそうした思いまで人工知能に委ねることが、果たして可能なのかと言った疑問へと私たちを追い詰める。

 それでもなお私は人工知能の発達による医療が、少なくとも今の「人である医師」に任せる医療よりも望ましい世界を作り上げてくれるように思えるのである。人が己の病や死に対してどのように向き合うのかは様々だとは思う。そこにはまた家族の思いなども重なってくることだろう。人は病に伏しあるいは終焉を迎えるとき、そうした思いの様々をどこかで他者に委ねなければならない。ただそうした時、その他者に医師と人工知能とがどこかで交錯させている自分を感じている。

 それは恐らく医師不信がどこかにあるからなのかも知れない。そしてふと気づいたことがある。これまで何度も触れてきた「脳死」である。死は誰にでも了解できるものとして私たちに受け入れられてきた。だが「脳死」だけは医師の専権に任されている。脳死を判定するのは医師に限られており、本人はもちろん家族が関わることすらできないのである。これが傲慢でなくてなんであろうか。だから医師が人間として患者に添うような存在となるように願いつつも、そうした願いは専門化する現在の医療制度の下では不可能なのかも知れないとも思ってしまう。医療は一体どこへ行こうとしているのだろうか。


                                     2016.8.25    佐々木利夫


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医師の要らない時代(3)