このテーマについては以前にも一度書いたことがあるけれど、またぞろ気になってきている。それはテレビの映像に付加して流される字幕(スーパーインポーズ、以下単に「スーパー」という。)が本来の目的から少し離脱してきて独自の方向へと進んでいるように思えることである。

 私の単なる思いだからそれほど当てにならないかも知れないけれど、スーパーの目的は「外国語の翻訳」が最初なのではないだろうか。私にしてみればアダルトビデオや単純なアニメなどを除いて、外国の映像などはスーパーなしにはまるで理解できない。

 中には意訳が激しすぎて原文とはまるで異なる意味になっている場合があるかも知れないが、それは翻訳として許される範囲内なのかそれともその限度を超えているのかの問題であって、ここで取り上げるテーマとは関係がない。それは、「翻訳とは何か」の問題であり、私のこれから書こうとしていることとはまるで異なることを最初に言っておきたい。

 私が気になっているのは、一つはスーパーが翻訳から離れて日常会話の中にまで及んできていること、そして二つはその日常会話をスーパーが補正していることである。

 一つ目は違和感はあるものの、それほどの抵抗感はない。会話が長くて要点をはしょりたい場合であるとか、発音の悪い老人などの発言や方言や手話など一般の人たちには理解しにくい言葉を遣われたときなどに、それを一種の標準語への橋渡しとして使う場合などはむしろ必要だからである。

 もちろん「日本語に日本語のスーパーをつけるのはどうか」、との思いもないではないけれど、理解しにくい会話を平易な日常語に変換するという意味では、まあある程度理解できないではない。

 ところが二つ目の補正に関しては、どこか気になってしまうのである。極端に言うなら、「それは補正ではなくて誤訳ではないか」とさえ感じてしまうからである。そうした例はいくつかあるけれど、一番気になっているのが「ら抜き言葉」である。ら抜きの表現そのものが気になるというのではない。ら抜き言葉に対する放送局というかスーパーをつける側の姿勢が気になってきているのである。

 「ら抜き言葉は日本語として間違いである」との指摘は、あちこちで聞かれることである。これに関して私は、そこまで目くじら立てて指摘する必要はないのではないかとの思いを、前にもここへ書いたことがある(別稿「テレビの字幕スーパー」参照)。これから書こうとすることも、その頃の意見とそれほど変わるものではない。むしろ「ら抜き」が拡大してきている現状から、そうした使い方を承認してもいいのではないかとまで思ってきているのである。

 例えば、「(寝ている状態から)起き上がることができる」という意味で使うときに、「起きられる」と言うべきなのか、それとも「起きれる」と「ら抜きの表現」でもいいのかどうか、更にはそうした話し方は間違いだとして切り捨てられるべきなのかどうか、という意味である。

 こうした使い方、つまり「られる」を「れる」と言ってしまう状況を「ら抜き」と言って、「見られる」→「見れる」、「着られる」→「着れる」、「来られる」→「来れる」、「止められる」→「止めれる」などなど、そんな例はいくつも挙げることができる。こうした使い方は従来から日本語として間違いだとされている。

 だからテレビは会話をスーパー化するに当たって、そうした間違いを補正しようとしているのかも知れない。もっともテレビのスーパーにこうした表現が出てくるのは、ことの本質から考えて日常から正しい日本語の使いかたを躾けられている、例えばアナウンサーなどに起きることは少ないだろう。だからら抜きが話題になるのはニュースなどの放送ではなく、テレビになんぞ無縁であった人がたまたま災害や事故などの中継で発言が求められ、日常会話のような状態でしゃべったようなときに起きることが多いと思う。

 こんなことを私が話題にするのは、私自身「ら抜き」言葉が気になっているからそうした使われ方が気になり、それがテレビのスーパーでことさらに補正されてしまうことで一層注意が引きつけられる、そうしたパターンに私が陥っているからなのかも知れない。つまり、「ら抜きでない」会話に補正という問題は起きないだろうから、「ら抜きである、ら抜きでない」という現象に私は気づかないままに聞き流してしまうということである。だからそうした状況に気づくということは「間違いであるら抜き言葉が使われた」という場面と意識下に私が置かれたことを示しているのかも知れない。

 つまりは、正常な使われ方のときは耳に障らないので聞き流され、間違った使い方のときだけ気づかされるということである。と言うことは、正常な使い方のときには正常と感じられることがなく、異常であることのみが強調されてしまうことを意味している。ましてやその間違いが「スーパーの字幕による補正」という手段で更に強調されてしまうことで、異常が一層増幅されてしまうということでもある。

 そうした傾向が私にどこまであるのだろうか。「ら抜きでない会話」があったとしても、そのことに私が気づいていないのだとしたら、ら抜きの傾向が世間に拡大していることを実証的に示すことなどできない。つまり「ら抜き」が使えるような機会が多数存在しているにもかかわらす、多くの人は正しく「ら抜きでない」会話しているのかも知れないからである。だから「ら抜き」の出現が10回に1回、2回に1回程度と多いのか、それとも100回に1回、1000回に1回程度の稀な出現でしかないのかをデータとして示すことはできないのである。

 検証なしに意見を言うことは、私が一番嫌うところではある。正当な根拠なしに言う意見は、多くの場合間違った主張につながることが多いからである。それでもなお私は、多くの人が「ら抜き」へと進んでいるような気がしてならない。日常会話のなかで「ら抜き」につながるような機会がどの程度存在するのか、私はまるで示すことができない。それでもなお、テレビには「ら抜き」表現が毎日のように出てきて、しかも字幕のスーパーが逐一それを「らを加えた会話」に補正している事実が見られるのである。

 日本語だってどんどん変化していっている。新しい言葉に限らず、新しい表現、新しい使いかたなどなど、人の考えが時代と共に変わっていくように言葉も会話もまた変化していっている。そうした変化に直ちに順応することが正しいことだというつもりはない。だからと言って「正しい日本語」というセオリーに頑なに固執することもまた、間違いになるのではないだろうか。

 文字を知る者は誰でも読んで楽しめた源氏物語だって、少なくとも私には写本そのものを文字として読み下すことはおろか、内容を理解することすらできないでいる。夏目漱石や森鴎外も今では古典作家となってしまい、彼等の小説は既に「古文」のジャンルに区分されている。いつも引用しているので「またか」と思うかも知れないけれど、「あらた」はいつの間にか「新しい」に表記が変化し、「ら」と「た」の語順が入れ替わってしまっている。

 だからという訳ではないのだが、私には「ら抜き」の表現が、今では「標準的な使いかた」としての市民権を得てきているような気がしているのである。少なくとも字幕スーパーで、ことさらに「この人の話し方はら抜きという間違いを犯しています、正しい日本語ではありません」みたいな補正をするのは、補正であることの範囲を超えて一種の嫌味になっているように思えるのである。

 そう思ってスーパー字幕を眺めていると、主語の追加や言葉の一部削除など、「ら抜き」以外にも「正しい日本語教えます」みたいな強要している事例が随所に見られるような気がしてならない。そこからは正義が正義であることをことさら主張しているような、嫌味の臭いがぶんぶん漂ってくるように思えてならないのである。


                                     2016.5.6    佐々木利夫


 出(ら)れる、続け(ら)れる、寝(ら)れない、食べ(ら)れる、来(ら)れたので・・・、気にしているからなおのこと気づいてしまうのかも知れないけれど、ここ数日のテレビからでも「ら抜き言葉」はふんだんに聞くことができる。普通の人の普通の会話の中に、ら抜きはまさに定着しかかってきているのではないだろうか。

                                            2016.5.20(追記)


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補正される会話