介護が介護される側のみの問題として捉えられ、する側の問題として捉えられる場面があまりにも少ないのではないかとの疑問を、数年前にここで発表したことがある(別稿「介護する側の論理」参照)。読み返してみたら2007年3月の発表になっていたから、かれこれ10年近くも前のことになる。

 介護が公的な保険制度として制定されたのは2000年4月のことなので、発足してからまだ16年弱である。だから未成熟な部分を残しているだろうことが分らないではない。また介護保険制度が「介護を必要とされる者を公的に補助する」ことを目的とするものであり、それに要する費用を介護される側はもちろん、介護する側や介護と無関係な者にも負担させようとする制度であることも理解しているつもりである。

 ところで「介護を必要とされる者」とは、自立生活に障害がある者である。精神的にせよ、肉体的にせよ、自力での日常生活が困難な者を指す。そしてそうした困難な部分を、他者が補助しようとするシステムが「介護」の意味であろう。もちろん介護される者の自立困難な部分を、訓練や習慣などを利用して機能的に復元できるように指導していくというテーマを含めてである。

 前述した2007年のエッセイでは、「介護する」ことが近親者に任せきりになっているのではないかとの思いを中心に述べた。そうした思いは今でもそれほど変わっていない。「自宅療養」、「自宅介護」が介護される者にいかに素晴らしい余生を与えるかとの美名の下で、結局は家族による無償の奉仕に委ねているスタイルは、ちっとも変わっていないように思えるからである。

 24時間介護も含めて、手厚い介護のスタイルがシステムとしても普及してきていることを否定はしない。素晴らしい介護を受けていて、幸せと思えるような老後を送っている「介護を受ける者」の存在を否定しようとも思わない。介護に真剣に取り組んでいる医師や介護師などがいる情報も伝わってくる。だが伝わってくる情報の多くは、放置される老人など「みじめな老後」を象徴しているものが余りにも目に付く。

 もちろん「普通に幸せ」であることの情報よりも、事件や事故などによる不幸な情報ほどニュースとして世間に伝わりやすいのかも知れない。だから、私が耳にする情報は最初から不幸な方へと偏っているのかも知れない。「針小棒大」との俚諺にもあるように、悪は誇大化されやすいともいえるからである。

 だが老人介護施設への入居を希望する待機者が数十万人とか、逆に施設の部屋は空いているのに介護スタッフが不足であるために受け入れられないなどの話しがあるにつけ、日本の抱える介護はどこか方向を見失っているような気がしてならない。

 私には介護の方向が「いわゆる介護」から離れて、「隔離」へと向かっているような気がしてならないのである。人の歴史の多くは、異質を排斥する社会であった。どの程度までを平均なり均等と呼びどこから異質と判断するのか、きちんと理解しているわけではない。たがそうした均質から外れた様々を目に付かないように隔離してしまうのが社会であったのではないだろうか。

 犯罪者を(たとえ法律にしろリンチにしろ)排除し抹殺し牢獄に隔離し、普通人平均人異常でないとされる国民との接触を断つことは、どんな社会でも当たり前のこととして行われてきた。そしてそれは今でも当たり前に行われている。

 「異質の排除」は、広く社会に浸透してゆく。犯罪者を超えて伝染病患者、精神異常者、自らの信条に反する思想家などなどへと、その範囲は様々に拡大していく。人種、職業、村八分、無視、いじめなどなど、人は他者に対する好悪や羨望、嫉妬にまで異質であることの排除を拡大し、更には貧富、利益追求といった分野にまで広げていくのである。

 そして人は「隔離」を別枠で管理するようになる。まさに「介護する側」と「介護される側」の分離である。特殊学級に分離された知能が遅れたとされる児童や盲聾唖者、老人ホームの入居者、何なら盲腸の手術で入院している患者でもいい、それら隔離された人たちは、「世話をする」と称する教師や介護師や医師などにより自動的にしかも疑念すら抱かずに管理されることになるのである。

 そこには「一緒に働く、動く、話す、聞く、楽しむ、学ぶ、考える」などと言った共同や協働と言った意識の交流が考えられることはない。まさに管理するものされる者の分離された異集団世界になるのである。そこにあるのはまさに「別枠」の対立だけである。

 私にはそうした延長に介護の問題点があるように思える。川崎市の老人ホームでは、僅か2ヶ月の間に、80〜90代の三人がベランダから落ちて亡くなった。その後の調査で職員による様々な虐待の事実も明らかになった。転落死の原因が自分で手すりを乗り越えた事故なのか、それとも他者による事件なのかも未だに不明である。生活保護者を受けている独り者の老人が、保護費を担保に取られてスプリンクラーもない雑居部屋に多人数で押し込められ火災で焼死した事件もあった。

 介護現場の現状が多忙や緊張を強いられている状況は、恐らく私たちの想像を超えることだろう。そうした現状は、正義だとかいたわりだとか優しさなどと言った通り一遍の言葉だけで説得することなど難しいとは思う。自傷行為を繰り返す老人に、夜間に拘束衣で就寝させることを、単に人権擁護の一言で批判するだけでは解決しないだろうことは分る。

 話としてだけしか知らないけれど、私たちは「姥捨て」を作り上げてきた。それは確かに「餓死」との対比で語られるような状況を示しているのかも知れない。それは「自らの死」かそれとも「他者の死」かというぎりぎりまで追い詰められた世界を示しているのかも知れない。

 ただそれでも私は、現代があまりにも安易に「異分子を隔離する」方向へと向かっていることに疑問を抱いているのである。場合によっては、「隔離」を認めざるを得ない場面があるかも知れない。だが人は「隔離」の許容範囲をいともあっさりと広げ、そのなかに安住してしまいがちである。

 「隔離」によって私たちは、「隔離された存在」を無視してしまう方向へと向かってしまうのではないだろうか。「隔離」することが解決なのだと錯覚し、「隔離された者」は不存在へと変質してしまうような気がしてならない。極端に言うなら、隔離された老人はこの世の多くの人たちの意識から消えてしまうのである。消えてしまった老人は、私たちにとっては不存在になるのである。いないのである。時々思い出すことがあったとしても、その「思っている時」だけ存在しているのであって、その時を過ぎると瞬時に不存在へと変わってしまうのである。

 それは特定の人にとっての介護される者の存在の観念だけでない。社会からも忘れられ、無視される存在へと変節してしまうのである。個人としては父母であり知人であったとしても、「隔離された」ときから介護される者は「ひと」から「もの」へと変節してしまうのである。そしてそうした現実は、「人としての尊厳」だとか「人の命は地球よりも重い」などという言葉だけでは説得できない深淵へと落ちていくのである。

 もしかしたらそれは、介護する者に対する社会の理解があまりにも小さく、介護する者に対する助け手となる者が余りにも少ないことに原因があるのかも知れない。介護する側の悲鳴はこんなところからも聞こえてくるような気がする。そしてそれは同時に介護される側の悲鳴でもある。介護と無関係な者、無関係だと思い込んでいる者の介護への関心、これこそが今必要とされているのかも知れない。


                                     2016.1.6    佐々木利夫


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