「憲法改正と世論(3)」からの続きです。

 憲法改正は九条の問題だけではない、と前回ここへ書いた。それはそうだと思う。経年劣化が問われているのだから、インターネットや携帯電話や組織的なテロ、更には原発や地方自治の拡大要請などなど、現行憲法を制定した当時は想定できなかったような変化を現代にもたらしている。だがその変化は、果たして憲法を改正しなければならないほどまでに、私たちの日常生活を不自由なものにしているのだろうか。

 例えば「戦争放棄」の規定を「再軍備できる」ように変更するのなら、どうしても改正は必要である。徴兵制度の導入や義務教育の有償化なども、現行憲法に明らかに反しているのだからその導入には改正が必要となる。だが、例えば「大学無償化」や「生活保護の義務化」など、国民の恩恵を拡大したり権利を拡大するような改正は、仮に現行憲法にそうした規定がなかった場合には実現できないのであろうか。義務教育は無償と書かれているけれど高校大学は無償と書かれていない、だから無償化は憲法違反だとしてそうした施策が司法で否定されることになるのだろうか。私にはそうは思えない。「義務教育の無償規定」や「基本的人権」といった現行規定の適用範囲を拡大解釈することで十分に対応可能であると思うからである。

 私には、現行憲法が人権や福祉を「宣言する形」、つまりプログラム規定として制定されていることを見るとき、「国民の意思や行動を制限する」形への変更はともかく、解放したり拡大したりする方向への改正は必ずしも障害にはならないように思えるのである。つまり私は、憲法改正の目的は「国民を制限し拘束する」方向以外にはないように思えるのである。

 「大学無償化」にしたところで、憲法に明文で規定した方が現実化しやすいことは事実であろう。義務教育無償化の理念や教育を受ける権利などの考え方を拡大解釈することよりも、憲法で明文化したほうが手っ取り早いであろうことは事実である。もっとも明文化したところで、「憲法は宣言(プログラム)規定であって、予算や人材などの具体的な制限に拘束される」とする考えで、現実化できない場合もあるだろうけれど・・・。

 だとしても明文化したほうが、より現実的であろうことは否めない。公明党は憲法改正に対する基本は「加憲」だという。国民の福祉などの必要なことを加えるだけで、実質的な変更は行わないという意味であろう。それはいかにも「現行憲法を現行理念のまま残し、国民の利便性に関する事柄だけを具体的に加算する」との主張のように聞こえる。

 だが、現行憲法の解釈で学者の多くが「集団的自衛権の行使」には疑問があるとしている昨年成立した安全保障法案の審議に、公明党は賛成したのである。つまり、公明党は「憲法に明文がないけれど、集団的自衛権は憲法理念に含まれている」との考えを承認したのである。だとするなら、集団的自衛権の行使を認めるとする条文を憲法に加えることは、単なる確認のための加憲であって変更ではないとするのではないだろうか。そもそも憲法に集団的自衛権が含まれているのなら、そのことを明らかにするための加える行為は「改正」や「実質的変更」ではなく、単なる「確認」に過ぎないからである。

 こうした意味で、加憲という言葉だけに、私たちは安心することはできない。なぜなら少なくとも私は、「そもそも憲法に集団的自衛権の行使は含まれていない」との説に与するからである。現行憲法を守りますとの主張もまた、その「守られる範囲」について異なる見解がある以上、一方の意見だけを承認するわけにはいかないのである。私にしてみれば、加憲も変更も言ってることは同じだと思うからである。

 ならぱ「集団的自衛権の行使は認めない」とはっきり明言する方向への憲法改正なら、改正してもいいではないかとする意見があるかも知れない。それはそうである。国民の福祉や安全や平和の拡大へと結びつくような改正がなされるのならば、恐らく国民の誰もが反対することなどないだろうからである。

 しかし、現在の改正への方向はまるでこれとは異なっている。例えば「集団的自衛権の追加」という発想であり、しかもその主張には常に国民の平和という衣がまとわれているのである。平和や安全や豊かな生活、そうしたきらびやかな衣装に包まれて自衛隊の海外派遣や武器の使用拡大などが語られているからである。

 しかも例えば国民のほとんどが異論を唱えないであろう公教育の無償化であるとか徴兵制殿の絶対的禁止などは俎上に上がることはない。改正のテーマは両刃の剣であることを見せつつ、片面だけを強調しているからである。国民の利益だけを示した片刃の剣は、もう一方に自衛隊員や他国人の死などの一面を持っていることをどこにも示すことはない。しかも、利益を示す片刃部分はあえて条文化しなくとも、現行憲法で十分解釈可能だと私は思い、だから改正して取り上げるまでのことはないと思っているのである。

 そして私が恐れるのは、両刃の剣の側面を持つ憲法改正が、国民の利益にだけ結びつくような小さな改正とセットで国民に提示されてしまうのではないかという点である。

 憲法改正は意味的には国民が付託した国会の総議員の三分の二以上による発議という形で起草される。そして国民投票で過半数が得られるかどうかという形で承認または否決されることになる(憲法96条)。そのことはいい。法律の制定を国民は国会に委ねているのに対し、憲法という法律の改正のみは国民の直接投票によるとした選択は正しい考え方だと思うからである。

 それでも憲法の改正案は一条ごとではなく、一括して提案されることになるだろう。現在考えられているのは「全く新しい憲法」という白紙からの提案ではない。現行憲法の文言をどこまで修正するか、もしくは追加するかという変更である。恐らくその内容は数項目、数十項目の複数になるだろう。そしてそれは、一条一条個別に国民投票にかけられるのではなく、「憲法改正案」として一括して私たちの前に提示され、賛否を求められることになるだろう。

 そのとき私たちは、トータルとして「賛成」、「反対」のいずれかを選択しなければならない。この条文は賛成だけれど、この条項は反対であるとする選択的投票ができるとは思えない。私たちは清濁併せ呑んで、提案された改正案の全体について、100パーセント賛成か、それとも仮に賛成したい部分があっても100パーセント反対するかのいずれかを選択しなければならないのである。

 もちろん選択は国民の過半数の賛否に委ねられている。ただ、複数にわたる項目の改正案が示されたとき、私たちはどこまで迷わずに選択できるだろうか。その案に仮に我が身の利害に関わるような部分があったとき、国民がどこまで公正に判断できるか、そんなことを私は危惧するのである。

 極端な例かも知れないけれど、例えば「集団的自衛権の行使」を認める条項があり、同時にもう一方に「生活保護費の増額」の条項が示されたとする。そして両方が一つの法律の中味として一括して提案された場合、もし私が生活保護費受給者だったらどこまでこの法律の改正に異を唱えられるだろうか。その改正案の中に障害者福祉の充実が含まれており、もし私が障害者もしくは障害者の親だったらどこまで集団的自衛権行使の存在を理由に改正案に反対できるだろうか。

 二つの選択肢が呈示されているだけならまだ単純である。もし仮に反対したい条項が一つ、賛成したい条項が二つ、もしくは三つと増えていったとしたらどうだろうか。集団的自衛権の行使だけが反対で、残る10項目は大賛成だったとした場合、私は全体を反対できるだろうか。そうした提案が現実に起きた場合、私や私たちや多くの国民はつい流されてしまうのではないだろうか。

 私は国民が愚かだといいたいのではない。それでもそんな弱さを持っていると思うのである。そしてお上の言うことに黙って従うような習性を持っていると思う。任せておけばなんとかなる、なんとかしてくれると思っている。そうした私たちの持つ弱さを政府は衝いてくるように思えてならない。

 国民の多くに優しさや利益を与えるような条項が、「憲法に規定されていないから」との理由で行政から拒否されたり、司法もまたそうした判断に追随するような例を、私は過分にして知らない。憲法違反として取り上げられる例は、その主張が身勝手だと批判されようとも、ほとんどの場合国民の意思を制限していると思われるような例、もしくは特定の個人の権利を制限していると思われるような例に限られているのではないだろうか。

 わさびを埋め込んだアンコロ餅を口にして涙を流すのは、お笑い番組なら構わない。しかしことはお笑いで済むような話ではない。憲法の改正は、最終的には国民の判断の委ねられている。その判断結果がたとえ衆愚と呼ばれ、ポピュリズムと揶揄されようとも、いずれ国民がその責めを負うことになる。そして私たちの受けるその責めは、私には途方もなく大きいように思えてならない。

 今のままでいい、これで十分だ。国際社会から身勝手だと糾弾されようが、世界が血を流しているときに日本だけが金で解決しようとしていると非難されようがかまわない。どんな形にしろ、軍備でこれからの世の中が変えられるとは思わない。軍備の拡大による恐ろしさは、世界中がこれまでの歴史の中で嫌というほど思い知ってきたことではなかったか。

 私たちがやっと手に入れた憲法である。世界的には非常識と思える内容を持っているかも知れないけれど、大切に育んできた貴重な戦争放棄の憲法である。そんな憲法を私たちはこれからも大切に守っていく必要があると、少なくとも私は心から思っているのである。

                                     2016.6.24    佐々木利夫


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憲法改正と世論(4)・終