「憲法改正と世論(2)」からの続きです。

 かくして自衛隊は「日本という国家を自衛するための組織」であり、我が家に鍵をかけその鍵をこじ開けようとするような外部からの侵入者がいた場合にのみ抵抗する組織なのだと説明された。しかもそうした心配のないときは、国民の福祉のためにお祭りだろうが災害支援だろうが何にでも力を貸す組織、そんな組織として承認されていったのである。

 その「自衛」の考え方が次第に変化していった。背景にあったのが「国際協力」であり、更にエスカレートしていったのが「集団的自衛権」という発想であった。

 国際協力とは、自衛の範囲を「我が家」から隣近所まで広げようとするものであった。隣の家が困っているのなら、少しくらい手を貸してやってもいいのではないか、そうすることが同じ町内に住む者同士の付き合いなのではないか、との思いである。もちろん、その手伝いの範囲から戦争は除かれることとなった。隣の家がお向かいさんと戦争しているようなときには手伝わないのである。だが、国民の多くが学校に行けなかったり、水道が壊れて水が使えなくなっているのなら、その範囲で手伝うことは武力行使にならないからいいではないかと考えた。

 自衛の範囲を「我が家」から「困っている家」にまで少し広げて、武力を使わない範囲でのお手伝いを認めようとするものである。これにより、自衛隊は「日本」を離れて海外の学校や道路などのインフラ建設などの支援へと活動の範囲が拡大されるようになっていった。そうした援助活動が、仮にもせよその国の軍事活動を間接的に支援することになっていたとしても、「私たちは学校を建てているだけで軍事支援はしていません」、「井戸を掘って住民へ水の供給をしているだけです」と言い訳された。

 その次に考えられたのが「集団的自衛権」という発想であった。これまで自衛の範囲は「我が家」だけであった。たとえ隣の家に強盗が入ろうとも、我が家を護る以外に武器を使うことはしない、そのことを私たちは日本国憲法の定めた戦争放棄の下での当たり前の信条としていた。

 その「我が家」の意味を変えたのである。これまでの「我が家」は「日本」と同じ意味であった。自衛隊は、「日本を護る組織」であった。「日本」という国こそが我が家であったのである。

 その範囲を政府は変えた。「『我が家』には、共同防衛の協定を結んだ他国も含まれる」ことに解釈を変更したのである。国際協力として軍事力の関わらない協力くらいはいいじゃないかとの考えから更に進んで、軍事力の使える自衛の範囲に同盟国も含まれることになったのである。「共同」とは具体的にはアメリカである。日本は第二次世界大戦後間もなく、アメリカと安全保障条約を締結してきた。たとえそれを「アメリカの核の傘に護られて・・・」と揶揄されようとも、日米は安全保障契約を締結することでアメリカの庇護下に入ったのである。

 そして昨年6月、自民党は国会に数人の憲法学者を呼んでそうした解釈変更に基づく関連法案の改正新設についての意見を求めた。自民党としては当然に一連の法律が憲法に違反しないとの意見が具申されるものと思っていた。なぜなら、そうした思惑に沿った意見を述べてくれるであろう人たちを選んだからである。ところが結果は、「提出された法案は憲法違反である」との意見が続出したのである。

 それでも政府は、憲法解釈の変更に伴う法案の提出を諦めることはしなかった。「意見は意見であり、意見は聞いた。法律を決めるのは国会の仕事である」ことを根拠に、2015年7月に衆議院、そして9月に参議院での可決を経てその法律は成立した。

 国際平和支援法(海外で自衛隊が他国軍の後方支援ができるとする新設法)、平和安全法制整備法(自衛隊法など関連する10の法律の改正を一つにまとめたもの)、の二つを骨子とする「安全保障関連法案」の強行採決であった。自民党と公明党の連立による、衆参両院での過半数を占める与党の強行採決であった。

 @ 集団的自衛権を認める。
 A 自衛隊の活動範囲や、使用できる武器を拡大する。
 B 有事の際に自衛隊を派遣するまでの国会議論の時間短縮。
 C 在外邦人救出や米艦防護を可能とする。
 D 武器使用基準を緩和。
 E 上官に反抗した場合の処罰規定の追加 などなど・・・。

 憲法を改正することなく、解釈の変更だけでこれほどまでの実効性が担保されたのである。これらの法律は本年(2016)の3月29日に施行され、すでに私たちはその法制下にある。

 こうした解釈の変更により、「我が家」の範囲はこれまでの思惑から離れて、日米になってしまったのである。自衛の対象は「日本の鍵を壊して進入してくる者」から、「日米へ戦争を仕掛ける者」へと拡大されてしまったのである。そしてアメリカは、少なくとも現状では「世界の警察」を自認し、かつそのように行動している。それをアメリカの戦争と呼ぶか、世界平和のための努力と呼ぶか、はたまたアメリカの驕りなのか世界の国々からの期待によるものなのか、それはともあれアメリカの軍事は世界中に拡大している。

 このような状況の下、鍵を掛けて護っていると称する「アメリカの我が家」は、世界のいたるところに存在している。中東、NATO(北大西洋条約機構)、韓国、アフガニスタンなどなど、世界の今の紛争を見るとき、そこにアメリカの影を見ない例などほとんどない。世界は紛争にまみれ、そのいずれにもアメリカの影が色濃く漂っている。もちろん、「テロが悪い」、「ロシアの陰謀だ」、「中国の武力を背景とした進出だ」、「人権を守れ」、「自由を守れ」などなど、それぞれの行動にそれなりの理屈はつけられるだろう。そしてその理屈はそれぞれに正義の衣をまとっている。

 ただ言えることは、こうした「集団的自衛権」の発想を我が国の「自衛権」に取り込んだことにより、「自衛」の概念が「我が国日本」という範囲から「日本とアメリカによる共同自衛」という範囲へと一挙に拡大してしまったことである。その守るべき範囲は、言ってしまえるなら世界であり、アメリカによる地球全体の共産勢力からの自衛へと広げることになってしまったのである。

 そうしたアメリカの思惑に、日本がどこまで追随していけるのか疑問なしとはしない。恐らく解釈の変更だけで、憲法九条の守備範囲をアメリカが満足するまでに拡大していくことは難しいだろう。九条の文言は、あからさまなほどにもはっきりと戦争放棄を掲げているからである。だからこそ、九条の改正、つまり憲法の改正が政府にとって急がれているのである。集団的自衛権が、単なる解釈論だけで日本にも認められているとするのではなく、憲法の明文で定められているそんな改正が欲しいのである。

 すでに憲法改正のための国民投票法が成立している。憲法改正は単に九条の改正だけにどどまるものではない。どこをどこまで変えるのか、そうした議論はこれからも続いていくことだろう。小さい部分から、目立たないところから、少し便利になる要素から、国民に優しい事項から、更にはそれらのうちから硬軟織り交ぜた同時提案をするなど、間もなく私たちの回りで改憲論議が沸き起こってくることだろう。そのとき私たちは、どこに視点を据えて憲法を眺める必要があるのだろうか。

 憲法改正というテーマは、私には荷が重過ぎたのかも知れません。私の中でなかなか思いが収束していきません。

                                「憲法改正と世論(4)」へ続けさせてください。


                                     2016.6.16    佐々木利夫


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憲法改正と世論(3)