9月7日の朝日新聞のコラム卓上四季は、ミャンマー(かつてのビルマ)政府の少数民族でイスラム教徒ロヒンギャに対する対応を批判していた。彼等を不法移民と決め付け、参政権も移動の自由も認められず、国軍による相当に脅かされ安全な地を求めて山や川を越える様子を指しているのだろう。

 そして卓上四季はこんな言葉で締めくくっている。「・・・だから暴力でなく話し合いがある。少数者の命と権利がないがしろにされる事態がこのまま続くのなら、何のための民主化だろう」。

 この民主化とは、現政権を率いているアウンサンスーチー氏へ向けた発言なのだろう。発言の趣旨はよく分かる。分りすぎるほど、よく分る。つい数ヶ月前、ここに「話せば分る、のか?」を書いたのは、世の中に「暴力でなく話し合いを・・・」という思いが果たしてどこまで通じるかの疑問が私の中で消えないからである。

 誰に聞いても、「それは話し合いがいいに決まっている」と答えるだろう。それはその通りかもしれない。だが、話し合いで解決するのは相手が話し合いに応じた場合に限られることもまた誰もが納得することだろう。それぞれの当事者にしてみれば、「話し合いに応じなかった相手が悪い」ことになるのかもしれないけれど、どんな場合も互いが納得できる話し合いができるわけではない。

 そのために、私たちは司法制度を作った。どんな紛争も裁判で解決できるとは限らないけれど、多くがこれで解決する。ただ、理解しておかなければならないのは、司法は現象面では話し合いの形式をとっているけれども、「話し合いで解決する」のとは少し違うのである。

 もちろん和解というシステムもあって、「互いの納得」が解決となる場合も多いだろう。だが、司法の多くは紛争当事者の話し合いによる解決ではなく、判決(調停・裁定・審判・裁決など、紛争解決のシステムには様々な呼び名がある)という形で、裁判官などの第三者による一方的な判断が示されることになるのである。

 もちろんその判断に不服のある場合は、例えば上訴などによって更に上級庁などの判断を求めることができるけれども、それとてもせいぜいが二段構え・三段構えであり、そこでの判断が最終判断とされてしまう。

 だから、いかに話し合いとはいっても、その判断に納得できない当事者にとっては「話し合いによる解決」とは程遠いものになる。しかもその最終判断は、「不満でも納得しなければならない強制的な判断」なのである。

 しかもこうした第三者による最終判断のシステムは、互いがそうしたシステムを納得しているという了解の下でしか成立しないことである。この「どうしても納得できない」ことは、単に個人間でのみ起きるとは限らない。個人、法人、地域、行政、国、などが互いに入り乱れて紛争が起きる。分りやすい例をあげるとするなら、「俺が法律だ」みたいな主張をする暴力団であり、国対国であれば国際紛争、つまり戦争の危機ということになる。

 つまり、「話し合いで解決する」というルールは、「話し合いで解決するというルールを互いに守る」という前提があって始めて成立するシステムなのである。相手が「話し合いに応じない」と主張する場面では、このルールは成立しないということである。そしてその背景に「暴力の大きさ」みたいなものが存在する。

 それが国と国の現実になっているのが、現在の北朝鮮とアメリカの紛争である。互いに一歩も引こうとしない姿勢を、単に「頑なだ」と批判するのは、それはそう思う側の一方的な独断である。果たして「話し合いで解決する」というルールを持ち込もうとすることは、その「話し合い」が「とても容認できない内容を含んでいる場合」にも妥当するのだろうか。

 北朝鮮の主張は「自国の存立」であり、そのための「原水爆などの核開発による自衛」である。そして一方のアメリカの主張は、自らが核保有国であることを是認しつつ「北朝鮮の核開発は認めない」である。互いに核開発を問題にしているのは、それを何と呼んでいいのか分らないけれど、「核の持っている自衛力、潜在的にせよ抑止力」を互いが、もしかしたら世界中が承認し合っているということである。

 それはつまり「核が力」であることを認めているのである。そしてその「力」とは、暴力である。理不尽かも知れないけれど、私たちは「力」に屈服する場合がある。どんなに自らの主張が正しいとしたところで、ピストルを突きつけた暴力団に抵抗することには無理があるだろう。

 そのために私たちは警察という組織を作って、暴力に対抗しようとした。アメリカ人はそれでも不安だとして、自らを守る「銃の所持」を憲法で保障した。私たちは私たち自身の中に、暴力への承認を抱え込んでいるのである。人類のみならず生物は、「本能として自力救済」、それも「暴力による自力救済」を内包しているのである。

 だからそれが正しいのだと言いたいのではない。それでもそれが生物であり人間なのだと言いたいのである。矛盾かもしれない。許されないことなのかもしれない。だが、少なくとも人類は、それを部族抗争と呼ぼうが、内乱や革命や宗教対立などと呼ぼうが、力による抗争と解決を数千年数万年と続けてきたのである。

 「暴力は許されない」という主張をしつつ私たちは、その多くを「暴力」によって解決してきたのである。もしかしたら私たちは多くの紛争を、「力づく、暴力だけで」解決してきたのかもしれない。そんな場面にいきなり「話し合いで解決する」というルールを持ち込んだどころで、そのルールがそれほどたやすく私たちの中に染み込んでくるとは思えないのである。

 これまで考えられたことのないくらい新しいルールが、望まれているのかもしれない。平和を願う人々が世界にこれだけいて、ノーベル平和賞を受賞する人々を毎年毎年輩出し、政治家の多くが武力によらない紛争の解決手法を望むなど、世界の知恵者が集まってもなお、その答を見つけられないでいる。

 こんなところで持ち出す話ではないと思うが、どこかで「人類こそが絶滅危惧種である」との思いがしてならない。戦争を発明してしまった人類に、もしかしたら絶滅以外に明るい未来はないのかもしれない。それこそが、「暴力に潜む矛盾」なのではないかと、私は今の世界中に広がっている暴力による紛争の拡大になすすべなく戸惑っている。


                                     2017.9.22        佐々木利夫


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暴力に内包する矛盾