「話せば分る」と叫んだのは、五・一五事件(1932年)で暗殺された犬養毅(いぬかい つよし)だと聞いたことがある。結局反乱を起こした軍人から「問答無用」の言葉と共に暗殺されてしまったのだから、彼の言葉が相手に通じることはなかったということである。

 ところで数日前に、アメリカ、バージニア州で、暴走した乗用車にはねられて女性一人が死に、34人が重軽傷を負うという事件があった。原因は、白人至上主義者による集会が開かれ、それに抗議する人種差別反対派の集会と小競り合いとなり、その反対派の集団に白人至上主義者の20歳の若者車で突っ込んだということらしい。

 原因はその町に建てられている、アメリカ南北戦争(1861〜65年)における南部連合の英雄、ロバート・リー将軍の銅像の撤去をめぐる賛成派反対派の小競り合いによるものらしい。かつての南軍が奴隷制度維持を是とするの思想を持っていたこと、そしてそのことを象徴し顕彰しているかのような記念銅像が目の前にあり、その銅像を撤去することの是非をめぐる混乱が事件の発端である。それはつまり人種差別の思想が、現在でもアメリカ人に根強く生き残っていることの証左でもあろうか。そしてその混乱が暴力へとつながっていく。

 「話し合いで解決する」ことは、様々な紛争の様々な局面で提唱される意見である。現在進行中のアメリカと北朝鮮のICBM(核弾頭搭載可能な大陸間弾道弾)の発射実験をめぐる紛争も同じである。それもまたつまるところは、「武力か、話し合いか」をめぐるものであり、結局のところ武力の行き先は「戦争になるかならないか」につながるものだからである。

 アメリカに向けたプロパガンダなのだろうけれど、アメリカ敵視を叫ぶ北朝鮮の若者の映像を見ていると、太平洋戦争から第二次世界大戦へと突き進んでいった日本、そして日本人の姿をそこにそっくり重ねることができる。私たちもまた、ついこの間まで鬼畜米英と「欲しがりません勝つまでは」を旗印として、自らの宣戦布告を正当化させていた過去を持っているからである。

 相隣関係(隣近所の土地の境界や日照更には騒音や臭いなどをめぐる紛争)をはじめ、労働運動、学生運動、そして国際問題などにいたるまで、人はどこかで力による解決、力で相手をねじ伏せようとする思いを承認しようとする。暴力の否定が人間として当然であることを肯定しつつ、人は自らの意見が通らないときには得てして暴力でその解決を図ろうとする。そして時としてその暴力がまかり通ることがある。

 「力」は時として他者への支配を可能にし、時としてそこに正義を擬制することすらある。戦争の勝者が実力的にはもちろん道徳的にも勝者となることは、これまでの多くの歴史が証明していることである。そしてその系譜に、そうした力がいつまで続くかはともかく、暴力団ややくざなどが現代でもはびこっていることなどがつながっていく。

 もちろん「力」は暴力だけではない。時に力は権力となって支配の形をとり、時に「金銭」に姿を変えて他者を動かすようになる。そしてまた、神や偶像を信じる力もまた、他者をコントロールする力を持つことがある。

 そうした時、言葉が力を持つことを否定はすまい。演説や聖書に書かれた文言が人が生きるための力を超えて、他者を支配する力を与えることだってあるからである。

 だが、暴力によらない力が、いかに弱いものかを私たちは身に沁みて知っている。ペンは剣よりも強いという言葉をしらないではない。また、音楽や絵画や小説や詩が、人を動かし社会を動かすことのあることをを否定はしない。だが世の中に、ペンよりも強い暴力は明らかに存在する。たとえそれが納得による承認ではなく、単なる不本意な屈服であるにしても、暴力が持つ圧倒的な力を否定することはできない。

 だからと言って、そうした力を肯定すべきだと言いたいのではない。暴力の支配する現実を肯定したいと言うのでもない。先週ここに、「伝わらない思い」と題するエッセイを書いたが、それが正しいと主張したいのでもない。ただ、「思いが伝わる」とかここで述べたタイトルのような「話せば分る」との思いは、現実を無視した空論、もしくは現実を見ない振りをしているだけのバーチャル世界に閉じこもっている幻想にしか過ぎないのではないかと言いたいのである。暴力が強大な力を持っているという事実を承認しないまま、言葉遊びの中にさまようことがむしろ現実的な危機を招いているのではないかと思っているからである。

 世界は事実として力で動いているのである。思想にしろ政治にしろ経済にしろ、背景にあるのはそれを戦力と呼ぼうが、はたまた抑止力と呼ぼうが、「力」であり「暴力」なのである。北朝鮮が核を持とうとするのも、アメリカやフランスや中国やロシアやイギリスなどが「核保有国である」ことにしがみつこうとしているのも、「核」には現実的な「暴力」としての力が秘められているからである。

 だから私はそんな現実を無視して「話せば分る」を繰り返すのは、知っていながらあえて言葉だけ先行させているのか、それとも効果のないことを承知の上で繰り返しているのか、それともそれとも、挑発に乗って相手が先に仕掛けてくることを手ぐすね引いて待っているのか、更には「私たちだけか強大国」であって、それ以外の他国が強大になることは許さないことを世界に認めさせようとしているのか、いずれにしても当事者も含めて、「話せば分る」ことなど誰も信じていないのではないかと密かに思っているのである。


                                     2017.8.18        佐々木利夫


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話せば分る、のか?