人が人を差別することについては、何度もここで論じてきた。それはもちろん差別を利用して他者を排除することを負の感情として組み立てるものだったし、そのことについて間違っていると思ったことなどない。だが、そうした思いが場合によってはどこか偏っているのではないかと思うようになってきた。

 例えばヒトラーが600万人にも及ぶユダヤ人を排斥したり、日本人の多くが日露戦争の戦勝を祝って提灯行列にうつつを抜かし、第二次世界大戦では戦争の相手国を鬼畜米英などと位置づけていることなどをとらえて、国民を戦争へと誘導したヒトラーや軍部などを諸悪の根源の位置に置いてきた。それはそれで、そうした特定の人物や組織を悪として掲げることに、それほどの違和感はなかったし。またそうした考えに同調した、いわゆる大衆や国民を一蓮托生として諸悪の中に含めることにも、特に違和感はなかったといっていいだろう。ところが最近の衆議院選挙をめぐる与野党の駆け引きを見ていて、特定の考えを悪と決めつけるような考えに少し疑問を感じてきたのである。

 それは、ヒトラーとその同調者、軍部とその掛け声に踊らされた国民などなど、特定の人物なり組織の意図を「自らと異なる」ことを悪だと決め付け、それに同調するグループにまで一蓮托生的に批判を広げることで解決するのだろうかとの疑問であった。

 なぜなら、差別という現象を、差別される対象が常に悪もしくは善のいずれかであると割り切ることなどできないように思えてきたからであった。つまり排除の論理は、あたかも常に善悪の二分化の現象であるかのように演出されていることが多いけれど、決してそうとは限らないと思ったからである。そしてまた、差別を主張する側が常に善であるとする主張に偏っていることにも疑問を感じたのである。悪同士、善同士であっても、それを小悪と呼ぶか中善と位置づけるか、更には悪や善の中にも性質の異なる善悪があると考えるのはともかとして、絶対悪と絶対善の対立のような構図として考えるのは誤りなのではないかと思うようになってきたのである。

 小池東京都知事が国政に向けて新党「希望の党」を設立した。現在国政は、今月10日告示、22日投票に向けた衆議院選挙が、公示前にもかかわらず実質的にたけなわの常態にある。これまで野党第一党だった民進党は、野党共闘を模索しつつも今一人気がない。このまま選挙を迎えるなら、大敗する危機すらある。そこで民進党の党首は自党から立候補する予定者全員を人気の高い希望の党へと入党させることとした。せめてもの野党としての生き残り策である。

 しかし受け手となるはずの希望の党は、民進党全員を丸ごと受け入れることはできないとしてこの提案を拒絶した。希望の党としては、少なくとも立党趣旨である安保法制と憲法改正に関しては理解してもらわなければ受け入れられないとの立場である。そんなこんなで民進党の党員からは、党首が希望の党への移行を決断したときの約束と違うのではないかと反発の声が出てきている。その結果民進党は、希望の党へ鞍替えを承認された者、無所属で立候補する者、新たに「立憲民主党」と名づけた新党を立ち上げて旧民進党の再結集を図ろうとする者など、三つに分烈して混乱の最中にある。

 このとき希望の党の党首である小池都知事の放った言葉が「排除する」であった。つまり民進党の党員を丸ごと受け入れるかとの選択に対して、「全部受け入れるつもりはない。政策に合わない人は排除する」とマスコミの質問に対して答えたのである。

 この言葉を聞いて、私は思ったのである。この「排除」は、見かけ上は差別し区別することを意味し、いわゆる「希望の党」へは入れない人がいる、つまり「入党を希望しても排除することがある」ことを宣言したものである。だがこの排除は「党の政策に合わない者の入党は認めない」との思いに過ぎないのであって、人種や民族の差別であるとか男女の差別などという意味の差別とは明らかに違うと思ったのである。

 先週ここへ書いたのは「十人十色」についてだったが、それは十人の人が集まればそれぞれがそれぞれに違った意見を持つことなど当たり前であることを言いたかったのである。そしてその違いを互いに承認しあうことを基本とすべきではないかとの思いを述べたものであった。だとするなら、「違う思い」だけを理由にその違う考えを「偏見もしくは悪」だと決め付ける根拠はないのではないだろうか。

 小池知事の放った「排除」という言葉が、今回は単なる「他者との違い、私との違い」という思いを越え、増幅して捉えられているような感じのしないでもない。それでも、「何かを成し遂げる」ことを目的に集まる集団に、玉石混交、更には目的にそぐわないような人物が入ってくることは、その目的を混乱させ組織を弱体化させ原因になるであろうことに違いはないだろう。

 もちろん十人十色という意味の中には、仮に意見の違いがあったとしても互いに一致点を探ることで目的達成に向かうことができるという意味での、一種の協調までをも排除するものではない。「意見の違い」という意味の中には多様な思いが詰まっていることを意味しているけれど、各人の違いが妥協できない単純な一色に限定されていることを示しているのではない。

 私の中にも、政治や経済、宇宙や環境、更には教育や小説や音楽の好みなどまで含めるなら、私は一色ではない。そのそうした好みの是非はともかく、私もまた無限とも言える色を持っている。だから人は十人それぞれが違うのだというのは、先週のべた1+1+1+・・・・=10人なのではなく、私の中にある思いの無限∞+隣にいるもう一人の思いの∞+更に別人の∞+・・・・が10人なのである。

 だから同じ意見を持つ者の集合といえども、まさに異なる意見の雑多な集合体にならざるを得ない。しかし基本となる「特定の思い」に一致、もしくは妥協できること、そしてその他の思いの違いには我慢もしくは捨象することができると納得することでも、人は共通した思いにまとまることができるのである。その一つの例として「政党」という組織があるのだろう。

 そのときの特定の思いとして、「安倍政権を倒す」ことだけを目的とすることも理屈としては可能であろう。だが、目的を達した後にその集団をどう維持していくかを考えるなら、とても安心して任せられるような政党ができるとは思えない。「安倍を倒す」ということは、これまでの安倍政権の主張なり考えに異論を唱えることを意味する。安倍政権が強引に立法したとして、個人としても組織としても絶対反対を主張してきた例えば安保法制への立場も同様である。「安保法制に反対する」との立場は、国民の向かう方向の間違いを指摘しているものである。それを簡単に希望の党に入りたいためにだけ「承認する」ことは、単なる「安倍を倒せに結集する」との論理だけで交換できるような問題ではない。

 同床異夢の集団の行く末は、例えばIS(テロ集団イスラム国)に対する戦闘組織からも見ることができる。相手を倒すことだけを目的に集まった集団は、倒した後のその地域の支配権を誰が握るのかについて戦いのる最中から内部的に分裂していっているからである。

 ましてや希望の党は安保法制、そして憲法改正への考えを共通する者の組織として作られたものである。だとすれば、その方針に反する者の受け入れなどできないと考えるのは至極当たり前だと思う。

 そして思ったのである。「排除」とは結果として差別につながるものなのかもしれないけれど、「目的とは違う思い」を区別しただけであり、それは排除することが自らの集団なり組織を強固にする手段になると思ったからなのではないかということであった。

 私たちはあらゆる差別を悪だと断じることの中にどっぷりと浸かり、そうした世界の中で安心という名の麻痺に犯されてしまっているのではないだろうか。差別し隔離する、そのことを私たちは当たり前なのだと是認し承認してしまっている。差別を無意識に承認してしまっている世界、私たちはそんな世の中をいつの間にか作り上げてしまったのではないか、そんな風に感じたのである。


                                     2017.10.6        佐々木利夫


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排除の論理