麻薬やアルコールやギャンブルなどなど、そうしたものへの依存は病気だとする考えが多く聞かれるようになった。依存している状況に「依存症」の文字を付加することで、病なのだから治療が必要であり治療すれば治るというふうに話は続いていく。

 そうした解釈に異を唱えようとは思わない。恐らくそうした背景にはそうした状況にある個人の心の中に、「自分でもやめたいと思っている。だがどうしてもやめられない」との葛藤があることを根拠としているのかもしれない。

 つまりは、自分の意思だけでは治せない、他者(専門家、医師、精神科医など)の助力や治療を受けることでしか治療できない・・・、と言ったところに原因があるのだろう。そのことにも、私は同意できる。ただ、依存の原因に「自らの意思」が深く関わっているのではないかとの疑問が第一点、そして余りにも多岐にわたる依存症の原因というか症状の多様性に対する疑念が第二点、この二つが頭から離れないのである。

 第一の「自らの意思」について考えてみよう。依存症は病気である、治療できるとの発想に、一番考えられるのは、原因たる病気の存在が頭に浮かぶ。一般的な病気であるとするならば、そのような病気に自らが罹患するような選択をすることはまずないのではないかと考えられることである。

 例えば風邪、例えばガン、例えば脳梗塞などなど、このほか名前を聞いたことのないような難病や遺伝子異常による症状まで含めると、世の中には恐らく無数と言ってもいいほどの病気があるだろう。それを病気と呼ぶいうことは、その状態が「本人の望まない症状」であるだろうことはすぐに分る。そして、そうした症状を引き起こす原因を除去すると治癒するだろうと考えられていることも分る。だが、決して自ら進んでその症状を望んだり、はたまたその症状の原因となるような行動などとらないだろうこともすぐに分る。

 つまり自らの意思で「病気になることを望む」ことなどないだろうということである。もちろん自殺願望や、罹患することを知りながら原因となる状況に無用心に身をさらす場合などもあるだろう。だが病気になること、そしてその治癒を願うという一連の行為の中で、望んで病に罹る者などないだろうということである。

 ところが、依存症と呼ばれる症状の多くが、「原因において自由な行為」であるような気がしてならないのである。「原因において自由な行為」とは、私の知る範囲では刑法の概念である。例えば刑法には刑事免責、あるいは軽減されるような行為がいくつかある。例えば心神喪失(刑法39@)、心神耗弱(同39A)、正当防衛(同36)、正当行為(同35)、緊急避難(同37)などである。

 つまり、意図的に心神喪失になるような状況下で起こした犯罪にまで、この条項が適用されるかがこの「原因において自由な行為」の概念である。たとえば、飲酒や麻薬などで心神喪失になり、その結果犯罪を起こしたとする。仮に、起こしたときの状況が加害者にまるで意識がなく心神喪失の下で起こした犯罪に当たるとした場合でも、刑事事件として無罪にしていいのだろうか。

 もちろんそうした状況が本人の責めによらない場合もあるだろう。例えば脅迫や催眠術などによって強制的に飲酒させられたとか、あるいは薬物を注射されたなど、錯乱状態になったことに本人の責任がまったくない場合には、こうした刑法の免責規定が働くであろうことは承認できる。

 だが、「酒を飲めば酒乱になって私は何をしでかすか分らない。気に食わない奴を無意識に殺してしまうかもしれない」など、そんな状況に陥ることを自ら知りながら錯乱するまで酒を飲み続けたのだとしたら、それもまた免責されるのだろうか。

 事実は錯乱状態で殺人を犯したのかもしれないが、そうなった背景に「そんな状態になるまで、自分の意思で酒を飲み続けた事実」があったとしたらどうだろうか。その飲酒はまさに「原因において自由な行為」であり、責任を免れることなどできないと考えるべきであろう。

 「病気なのだから本人に責任はない」、こうした風潮が、「依存症は病気です」とする言葉の中に無意識に込められているように私には思えてならない。そうなる原因を作った責任、つまり酒乱になるであろう習慣に無防備に身を委ねた責任は、病気とは違い本人に責任の一端があるように思えてならないからである。決して「病気である」ことに逃避してしまうことなど、許されないと思うのである。

 「病に逃避する」ことは、原因を他者の責任にしてしまうことである。こうした主張を許すということは、原因も経過も将来もすべて他人任せ、医者任せになってしまうことを意味し、自らの責任を放棄してしまうことになりかねない。

 確かに「依存症」と診断されたということは、「本人の意思ではやめられない」状況を意味しているのかもしれない。「だからこそ病気なのだ」と言うのかもしれない。そのことがまるで分らないというのではない。それでも私は、先に述べた「原因において自由な行為」の責任を本人に負わせる必要があるのではないかと感じているのである。

 そして第二点は、余りにも多い「依存症」の種類というか多様性である。あらゆる行動や嗜好に「○○依存症」の病名がつけられるような現状は、逆に「依存症」という病気そのものを空洞化させているように思えてならない。名づけられた○○は、行動や嗜好に限らないかもしれない。最近の風潮を見ると、思考や習慣やちょっとした癖なども、依存症とされるような傾向がある。

 依存症には通常「物質」、「行為」、「人間関係」の三つに分類できるという。物質とはアルコールやタバコ、麻薬などであり、行為にはギャンブルや買い物や万引きなどがある。そして人間関係には異性や保護者に対する依存、ストーカーなどがあげられている。

 だが考えてもほしい。これらに対する嗜好や選択は私たちの生活というか人生、むしろ生き様そのものなのではないだろうか。私は米の飯を常食としている。たまにパンや麺類を口にすることもないではないが、恐らく食生活の90パーセント以上が米食である。だから私は米依存症である。

 一年の数日を除いて毎日数キロ離れた事務所へ日参している。通うのがやめられないでいる。ならば私は事務所依存症であり、苦にならなのだから通勤依存症であり、共に生活すべき空間と時間をないがしろにしている妻離れ依存症であり、ひとりで本を読んだりゲームや楽器に没頭している孤独依存症であり、それなしでは一日も過ごせないパソコン依存症でもある。

 もっと付け加えるなら、読書依存症、エッセイ作成依存症、かりんとう依存症、楽器依存症であり、とうとう税金を定年後の税理士稼業まで含めて生涯の職業にまでしてしまった税金依存症でもある。つまり、私の中の依存症はいくらでもあげることができるということである(続)。


   これまで何度も触れてきたのに、まだ私の中で依存症への思いは解決していないようです。
                                 「依存は病なのか(2)」へ続けさせてください。


                                     2017.3.23        佐々木利夫


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依存は病なのか(1)