前回の「依存は病なのか(1)」の続きです。

  私のこれまでを振り返ってみると、パチンコや競馬・競輪などのギャンブルとはまるで縁がなかった。しかし、飲まない日が数日続くと無性に飲みたくなることもあるから、アルコール依存症の可能性は否定できないかもしれない。また、日常生活は食事から掃除洗濯、家事にいたるまで、自宅での一切を妻に寄りかっているから、完璧な妻依存症でもある。そんなこんなを考えてみると、私の中にも多くの「依存」が存在していると分ってくる。

 だからこれまでエッセイの場でも、依存症についての様々な思いを登場させてきたのかもしれない(別稿「私の中の心療内科」、「私も依存症?」、「広がっていく心の病」、「私の中のアルコール依存(その1)(その2)(その3)」、「麻薬所持と通報」、「拡散する依存症」、「カバン依存症」、「個食は孤食なのか」、「人と依存症」などなど参照)。

 自分の意思で、体内に取り入れる物質の量や特別な行動の繰り返し、更には他者との係わりへの執着などをコントロールできなくなるのがコントロール障害であり、それがそのまま依存症たる症状を示していると言われている。私は前に書いたように、土日構わずに事務所に通っていることや飲食の嗜好や家族との関係、そして趣味興味などが他人とは多少異なっているだろうことは自覚している。その反面、異なっている状態を個性とまで言い切るつもりはないけれど、少なくとも私個人としては、自らが選んだごく当たり前の姿ではないかと思っている。

 こうしたとき、果たして誰がその偏り具合が基準から外れていると判定するのかは、とても難しいところではある。またその基準なり理想的と認定した一線を、どのようにして決めたのかも難しいところである。さりながら、言われるような状態を自力ではコントロールをできないでいることは事実であろう。しかし一方で、私は少なくとも今の生活がとても痛快だと感じており、今さら変更しようなどととは思っていないのも事実である。ならばこうした変更しない、変更するつもりがないなどのこだわりは、まさに依存症の典型的な症状を示しているのかもしれない。

 コントロールできない状態が、自己への弊害や他者に対する迷惑にまで及んでいるかどうかなどについても同様である。恐らく私が選択している現在の状態にも、その選択をしたことに伴う様々な弊害がどこかに発生していることに違いはなかろう。米飯偏食によってフランス料理や中華料理などの異なった味覚を味わう機会を喪失させているかもしれない。読書傾向の偏りによって他の文学的分野に目を向ける機会を自ら放棄し、多くの豊かな世界を経験するチャンスを失っていることだろう。また事務所通いの偏重は、私の人生にもっと有益だったかもしれない他の場所への立ち寄りの機会を喪失させたことだろう。

 パソコンや音楽や読書などに費やす時間を、例えば散歩や数学や絵画や詩作などに費やしていれば、現在よりもっと健康的で豊かな人生につながったかもしれない(逆もまたありうるのだが)。そう考えると、私の選択したこだわりは、選ばなかった、もしくは選べなかった無数の経験の放棄を示している。だからそれは、その数だけの後悔につながっている可能性だってある。

 ただ、限られた時間なり人生の中で、ある選択への消費は他の経験の放棄を意味しているのだから、当然にその放棄に伴う影響は避けられないだろう。それは、自らに対する弊害だけに止まるものではない。ある時間を、特定のこだわりに消費し、妻や子どもたちや肉親や友人、更には社会や国際貢献などに使わなかったことによる弊害にもつながっていくことだろう。ただそうした弊害をなくするように努力するということは、同時に今味わっている自分の生活への満足を、結果的に犠牲にしてしまう可能性を招くことにもなりかねない。

 それでは何も選択しなければ犠牲もまたなくなるのかというと、そんなことはない。無為という多大な弊害が生じるだけだからである。だからといって何かを選ぶと、それに費やした時間を他の分野へ振り向けることができなくなるのだから、選択というのは一種のジレンマを含んだ概念になってしまう。

 私が言いたいのは、多様な形態を持つ依存という事実を、病であると認定してしまうことが、逆に依存症という概念を希薄化させてしまっているのではないかということである。

 人は病名がつくことで安心する。病名がついたことで、あたかも病そのものが解決してしまったかのような錯覚にさえ陥る。ただ、こうした考えをすること自体の中に、私自身の依存症に対する錯覚があるのかもしれないと思うときがある。それは、「依存すること」と「それが依存症であること」の差を、きちんと理解していないのではないかという畏れである。

 「依存」そのものが病気なのではなく、「依存症」になって初めて病気と診断されるのだと割り切ってしまうことで解決するのではないかということである。つまり、私のこれまでの理解は、この両者を混同してしまっているということでもある。

 そうした解釈を理解しつつも、まだ私にはその区別をきちんと整理できていない。一つの判断として、依存の結果が犯罪にまで及ぶ場合を「症」として承認してはどうかとする基準を考えてみよう。例えば「麻薬」や「アルコール」などによる犯罪を考えてみよう。ならば、犯罪に至らないようなケースには「症」の文字はつけなくてもいいのかと問われてしまうと、必ずしもそうでないことが分ってくる。

 それでは、その基準を「犯罪にいたる可能性」にまで拡大するのはどうだろう。でもその場合、誰がその可能性なり程度の判断をするのだろうか。そして犯罪とは他者に対する犯罪なのだろうか、それとも自己に対するもの(例えば自殺など)も含めるのだろうか。そしてその犯罪に対する予備まで含むのだろうか。

 更には、犯罪にまでは至らないとしても、貧困を招くような浪費や不健康を招くような嗜好の繰り返しは考慮しなくてもいいのだろうか。こう考え、そこまで基準を拡大させてしまうと、私がこれまで述べてきた「依存と依存症とを分断する」というテーマの振り出しに戻ってしまい、新たな混乱の始まりになってしまう。

 つまり他者に影響を与えるような趣味嗜好、自分の体に必ずしもよくないと思いつつもやめられないでいる飲酒や食習慣にまで、依存症の範囲が広がってしまうからである。

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  またまた私の悪い癖である「連続のわな、程度のわな」に、はまってしまったような気がする。もしかしたらこうした思考回路に陥ってしまう癖そのものが、私の「依存症」の症状を示しているのかもしれない。すいません、二回に分けて書いてきたのに、まだこのテーマの決着がつきません。もう少し続けさせて下さい。

                                       「依存は病なのか(3)」に続きます


                                        2017.3.31        佐々木利夫


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