先週、物忘れと記憶の関係について書いた(別稿「物忘れの判定」参照)。書いているうちに、記憶とは何なのかがよく分からなくなり、それに引っばられるように記憶と自我みたいな関係についても迷うようになってきた。

 物忘れというのは、自と他を区別して考えた場合、「他」に対する記憶の欠如を指すことが多いように思っていた。そうしたとき、「自」に対する記憶とは何を意味するだろうかと、ふと思ったのである。ドラマや小説などでしか知らないのだが、「記憶喪失」という症状がある。

 いわゆる「ここはどこ?、私は誰?」に代表される症状である。そうした人たちの症状を見ていると、他人を見て「他人である」との認識、つまり見ている相手が異星人や犬猫ではなく「私以外の人間である」との認識は持っているようだ。また互いの会話も成立しているようなので日本語の記憶もあるようだし、喜怒哀楽みたいな感情も持っていることも分る。

 それにもかかわらず、「自分の名前や住所や生い立ちなどの記憶が抜けている」という症状である。歩くことや食べること、トイレに行ったり会話の間のとり方などの障害はないようなので、つまるところアイデンティティ(自分が何者なのかの認識)だけが欠如しているようである。

 ただこれがどうにも解せないのだが、「記憶喪失」と「認知症状」とは記憶の欠如という共通点はありながらも、まるで別の症状として考えられているように思えることである。

 そこの所に私は、「自我」というものが何を基に認識されているのかが、ふと気になったのである。そしてその時に考えついたのが「鏡」であった。鏡に写った我が身を見て、その記憶喪失者なり認知症患者はどんな反応をするのか、どんな思いをするのかが気になったのである。

 もちろん、鏡に写った映像と自我とが直接結びつくものではないだろう。鏡という存在がなくたって自我は当たり前に存在しているだろうからである。それは例えば民話などに、始めて鏡というものを知った主人公が、今は亡き父や母がそこにいると勘違いする話しが数多く見られることからも分る。また、犬猫などのペットに自我という意識があるかどうかはともあれ、鏡に写る自分の像にじゃれついている姿などにも想像することができる。

 そうした話から分ることは、始めのうちは鏡の像が「自分の姿」であるとの認識がないということである。そしてやがてそれが自分であることを理解するようになる。さて、果たして鏡に写った顔を見ている彼・彼女は、いつの時点から(何回目くらいから、もしくは何歳くらいから)「写っているのが自分である」と認識できるようになるのだろうか。そして、「私の顔」と理解できたことと自我とは、どのような関係にあるのだろうか。

 「私が私であることの認識」なんていうと、いかにも哲学的な世界に踏み込んだような言い方になるけれど、そうした言葉が果たして何を意味しているのか、実は私はまったく理解できていない。単なるレトリックとして「自我」を説明しているだけで、その説明が「自」と「他」を区別する基準になっているのかどうかさえも、よく分からないでいるる

 私たちは赤ん坊の頃はともかく、ある時から鏡に写った像に手を伸ばし、時に反対側にある自分の鼻に手を触れ、口を空けたり手を振ったりする。そしてそうした動作が同じように鏡に写っていることを確認し、やがて自分の姿がそこに写っているのではないかとの疑問を抱くようになる。そしてそうした行為を繰り返し、やがて鏡の像が自らの像であることを疑うことすらしなくなってしまう。

 だからと言ってそうした認識にいたる行為から私たちは、「そこに自分という存在がある」、「自我がそこにいる」、「私は私である」などと感じるわけではない。自我を感じるのに、そうした鏡による効果がまるでないとは思わない。だがそれよりはむしろ、「我思う、ゆえに我あり」みたいな、「私は今、自分について考えている」と言った、そんな「考える」という行動から派生していくのではないだろうか。

 そうした結果を「自我」であるとか「自意識」と表現していいのかどうか、必ずしも私が理解しているわけではない。それでも、「ここに個としての私がいる」くらいの認識はできているだろう。考えているのが「個としての自分である」くらいの感覚は得られるのではないだろうか。

 ただ鏡に写っている姿が「自分なのかどうか理解できない」という状況が、果たして現実に存在するのかどうかが気になったのである。「自分が分らない」という状況なり話を聞いたことはある。そのときの「自分が分らない」とは、自身の名前や過ごしてきた過去が分らないということを意味しているだけのことであって、例えば相手を指差して「これははあなた」、自分を指差して「こっちはわたし」という基本的な根っこくらいの認識は始めからあるように思えたからである。

 それでも自と他の違いが、まるで「分らない」ような状況が現実にあるのかどうか、寡聞にして私の知識ではそこまでの話は聞いたことがない。そんな思いの一方で、自我とはそんな違いまで追求して始めて確立できるものなのだろうかとの思いもある。

 ただ言えることは、「私とは何か」、「自分とは何か」の意識は、少なくとも自らの記憶と深く関わっていることは言えるのではないだろうか。むしろ硬く結びついていると言ってもいいように思う。だからと言って、記憶がビデオのように「変わらない」、「変えられない」ものではないだろうとも思っている。記憶は日々、いやもっと短く刻々と変化するものだからである。

 数分前の私の記憶と現在の記憶とは、違っているはずである。それはそのまま、少し前の私と今の私とが違っていることを意味している。にもかかわらず、そのことが「私は私である」ことの実体を否定する根拠となることはないだろうとも思っている。

 それなら、自我と記憶とは別次元のものと理解していいのだろうか。もっと極端に言うなら、認知症になってしまったら自我は存在しなくなってしまうものなのだろうか。植物状態になって、人工呼吸器でかろうじて心臓が動いているだけの人間に、自我は存在しないのだろうか。

 自我と記憶とは切り離せないように思っている一方で、記憶から切り離された自我というものの存在もまた、同時に認めてもいいような気もしている。

 「自分探し」という言葉が、氾濫している。そうした主張が時に「世間に対する甘え」と感じたり、「わがまま」と感じることもある。そして「探さなくたって、自分はいつもそこにある」と思うことだってある。また一方で、「自分という存在を自分で理解できるのかという問いかけは、根源的に不可能な問いなのではないか」と思うことすらある。

 もしかしたらいつの時代も、「私は私であること」に人は生涯悩み続けるよう、宿命付けられているのだろうか。答えのない問いかけの中に、人は翻弄され続けていくのだろうか。


                                     2017.5.5        佐々木利夫


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自分であることの記憶