あんまり熱心に仕事をしていない税理士だが、事務所の郵便受けには所属税理士会の会報をはじめ、出版社からの会計や税法に関するチラシなどが毎日のように入ってくる。

 そんな中に「公用文用語辞典」と称する書籍の案内があった。特に意識しているわけではないけれど、事務所の書棚にも(実を言うと自宅にも)分厚い法律用語辞典の類が鎮座しているし、そのほかにも国語辞典をはじめ「心理学辞典」であるとか「音楽辞典」など、蔵書中に辞典はけっこう多い。このチラシも特定分野の辞典の宣伝であり、特別珍しい辞書ではない。だからそれほどの目新しさもなく、内容的にも興味がなかったので、そのままゴミ箱へ直行する運命であった。

 ただその時は、たまたま私の意識がへそ曲がりの方向へと向いていたのだろうか、ふと気になったのである。それは「公用語」とは何だろう、と思ったことであった。そして同時に必ずしも行政が発する文書に限られるわけではないだろうとも思った。そして、それにつられて、私たちが私人同士として交流する例えば「手紙や葉書」やメール、更には私がこれまで10数年にわたって書いてきたこうしたエッセイなどは「私文書」に位置づけられるであろうと思い、それに対応するものとして「公文書」があると思った。

 ただ、公文書とは私文書以外の一切の文書を指すのかと問われてしまうと、それにもいささかの疑問を感じてしまった。文書を二つに分けて考えること自体はそんなに難しいことではないように思う。「私文書」を私人間の交流文書と位置づけ、「公文書」をそれ以外と定義づければいいからである。

 ただそうすると、例えば企業同士、企業から私人に向けた文書はどちらになるのだろうかと悩むあたりから、疑問が始まってくる。近所のスーパーや飲食店からの宣伝チラシは、まあ「私文書」に入れていいかもしれない。だが、電気料金の改定であるとか、JRの運送約款、自動車メーカーが作成した運転マニュアルやリコールの通知文書などに至ってしまうと、実質的に「公文書」に非常に近くなってくるような気がしてくるからである。

 また公用文と一口に言っても行政に限らず、司法や法律関係の文書もあれば、国会の議事録や官報などもあり、多様なものがあろう。ただ、この送られてきたチラシの「公用文用語辞典」の宣伝文をざっと眺めてみると、どうやらそこまで網羅したものではなく、いわゆる「行政が発信した文書の用語」を解説したものらしいと分った。つまり、行政から国民に宛てた文書という意味での公用文であり公用語という意味である。

 公用文の意味をそんな風に解すると、今度は国民に宛てた文書の理解に辞典が必要だとする考えに、いささかの抵抗を感じてきたのである。つまりは、「公用文」という特別なジャンルを設けるという発想そのものが、疑問に思えてきたのである。

 もちろん「私文書」には、例えば時候のあいさつであるとか、要点をぼかした間接的な表現などの冗長な部分がけっこう含まれることは多いだろう。またそうした冗長さが同時に、私人同士の親和などに役立っていることも理解できないではない。だからと言って、「簡潔で要点のみ」を記した文章だって、十分に私文書として通用するはずである。例えば「一筆啓上、火の用心、おせん泣かすな、馬肥やせ」に代表されるような伝言文の類である。

 そう思うと、「公用文」というジャンルは、発信する側が意図的に作り出しているのではないかと思えてきたのである。つまり発信する側としては、その文書が「相手方(つまり国民)に行政の意図をきちんと伝えること」に目的があるにもかかわらず、あえて「公用文という独特の文体や枠組み」を作り、その縄張りに一種の権威を持たせることを狙っているのではないか、と思えてきたのである。

 つまりは「文書の分りやすさ」、「文体の分りやすさ」という目的から離れて、いかにその文書に「行政としての権威を与えるか」に目的があるように感じてきたのである。

 随分と以前のことになるが、「よらしむべし、知らしむべからず」の発信者が孔子であること、そしてこの言葉の意味するところを書いたことがある。そこでは、この文の真意は「国民にはなるべく情報を与えず統治者に頼らせるようするのが、国の管理手法の決め手である」という意味なのではなく、「国民に頼らせることは容易だけれど、国の真意をきちんと理解させることはとても難しい」の意味なのだと書いたのを記憶している(別稿「よらしむべし、しらしむべからず」参照)。

 私はこのチラシを見て、公文書が独立したジャンルとして存在し、その分野に国民が踏み込むためには専門の辞書が必要になるほど難解になっていることに、疑問を感じたのである。そしてそんな方向へと、公用文・公用語が増殖していっている現状に、どこか行政が「分りやすく国民に伝える」という責任を放棄しているように思えたのである。

 もちろん公用語辞典と称する作品が、いわゆる「ジョークとしての辞典」を指すのであるなら、それはそれで理解できないではない。むしろ、そうした辞典があることは、一種の行政批判の書として大歓迎でもある。

 例えばビアスの作品に「悪魔の辞典」という著書がある。一時期夢中になって読みふけった記憶があるが、その中かのいくつかは私の読書メモとしてカードに残してあるほどである。このエッセイとはまるで関係がないけれど、いくつかを紹介してみよう。

 「慰め」・・・自分より能力ある者が、実は自分よりももっと不幸だと理解すること
 「幸福」・・・他人の不幸を見ている内に沸き起こる快い気分
 「拝金」・・・世界第一の宗教の神
 「お金」・・・手放すとき以外何の役にも立たぬ恩恵物。教養の証拠であり、上流社会への入場券
 「外交手腕」・・・自国のために虚偽を申し立てる愛国的術策
 「冷笑家」・・・その眼が視力不足であるため、物事は当然こうあるべきだという風にではなく、実際あるがままに見てしまう下司野郎

 こんな風な行政批判としての辞書ならば、最近の文科省をめぐる「森友学園」の小学校新設や「加計学園」の獣医学部新設の許認可にかかる国会答弁などを始め、世の中には溢れるほど材料が揃っているように思えるけれど、どうやら世間はそんな方向には進まないものらしい。

 「遺憾」、「検討します」、「善処」、「見当たりません」、「記憶にない」、「廃棄しました」などなど、解説が必要と思われる公用語は、今の世にも溢れるほど存在している。それにもかかわらず、それらをきちんと解説した辞書が、私たちの前に出てくることはない。


                                     2017.6.16        佐々木利夫


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