10年以上も前のことになるが、「オオカミ少年」について書いたことがある。この寓話は、一般には嘘を戒めるものとして流布している。つまり、「嘘ばっかりついていると、誰からも信用されなくなるよ」という意味であり、だからいつも正直でありなさいという意味である。

 ところが私はこの話を、「嘘かも知れなくとも、まずは信じなさい」の意味を私たちに教えているのではないかと解したのである。もし仮に「オオカミが来た」が嘘だとしたら、それを信じなかった人が「オオカミに食われる」という被害を受けることはない。でも少年の警告が本当のことであり、それを信用しなかったことでオオカミの餌食になってしまったとしたら、「信用しなかったこと」が命取りになってしまうからである。

 そこでまたぞろ天気予報の話である。先のエッセイではこうした話に続けて、「教訓〜台風や地震などの命にかかわる情報は、なんど外れても信じなくてはいけないよ」を付け加えることで締めくくった。

 そうした考えがあってもいいではないかと、私は今でも思っている。「信じない」ことが「我が身の危険、更には命」と結びつくとき、答えははっきりするのではないかと思うからである。

 それでも最近の天気予報の警報の頻度には、どちらかというとうんざりしている。それは警報の種類が多いこと、かつその種類ごとに軽度から危険まで多段階に分かれているからである。もちろん、多段階に分けられていることの意味が分らないというのではない。被害を与えるまでには至らないような状況を知らせる軽度の注意から、人命にかかわるような状況を予測した警報とは、自ずから異なったものになることに違和感はないからである。

 だが、こうした注意というか警報は、私たちの日常生活のあらゆる場面に登場するようになってきた。そしてそのことが私たち自身の感覚を麻痺させているように思え、とても気がかりなのである。それはその麻痺が、自己責任と密接に結びついているように思えてならないからである。

 どんな場合も、国や自治体に「なんとかせい、なんとかしてくれる」と思うことが妥当だとは思わない。「自分で考えろ」が自らを守っていくときの基本にあるだろうことは理解している。それはつまり、自己責任が私たちには、常に付きまとっているということでもあろう。

 だが、私たちの周りに張りめぐらされている警報や警告の種類と程度は、どこか異様なまでの広がりになっているのではないだろうか。

 それは天気予報だけにかぎるものではない。地震、火山噴火などの自然災害への警告はもちろん、車の運転や詐欺商法振り込め詐欺への注意、火災や食中毒、ヒアリやスズメバチなどの害虫被害への気配り、ペットによる家電火災の恐れなどにいたるまで、私たちは雑多な警報に取り囲まれているのである。

 だからこそ自己責任という言葉が出てくるのかもしれない。もし仮に、警報を出す側がその警報どおりの事故や災害が起きたときに、それにともなう被害や損失の責任を負わなければならないとしたら、それは不可能な要求だと思うからである。警報したことにそんな責任を負わせられるのなら、当事者は警報なんぞ出さなくなるだろう。

 だからと言って私は、警報を批判したり不要だと言いたいのではない。ただ、警報が警報であるためには、警報を出す側の責任というか姿勢が大切だといいたいのである。「警報の発信に責任を持て」と言うことは、結果の損害や損失を背負えというのではなく、責任ある警報、つまりは信頼される警報に向かうべきだといいたいのである。

 それが今はあらゆる場面で、「警報の乱発」が起きているように思えてならない。その乱発の原因は、「警報を出すこと」と、「警報の責任回避」があまりにも密接に近づきすぎていることにあるのではないだろうか。責任を回避しようと考えるあまり、警報を発する担当部署は「・・・起きるかもしれない」ことのレベルをどんどん下げていっているのではないだろうか。

 その結果が、警報を無視する、警報を信じない、警報は参考意見だ、警報なんて当たったためしがない・・・など思へとつながり、人の警報に対する信頼が目に見えるように下がっている。まさに意味としては逆なのかもしれないけれど、「オオカミ少年」が「信頼されない少年」へとつながっているのである。

 その原因は、わたしは「警報の多発」にあると思っている。「当たらない警報」が何度も繰り返されることで、人は警報を信じなくなってきているのである。そして警報の多様性がこうした傾向に拍車をかけている。つまり警報への信頼もまた自己責任になってきている。「信じようが信じまいが、私の勝手」、そうした思いが警報の受け手に蔓延し始めているのである。

 それはまた、「警報に振り回されるのはごめんだ」との思いにつながるものでもあろう。警報がこれほど頻繁に、しかも多様に出されると、人はいつも警報だけの中に暮らすことが要求されるようになる。警報をないがしろにすることで、人はそうして作った時間だけやっと解放されたと感じるようになるのである。

 確かに警報は自己責任である。ならば警報を出す側は、警報が溢れるほど世の中にあることを理解し、自からの出す警報だけが警報として大切なのだとの思い込みから少し離れて、「いかに信頼される情報なのか」を検証する自覚が必要になると思う。「とにかく警報だけは出しておこう。そうすれば、発生した災害やその損失に対して、少なくとも『警報さえ出されていれば助かったのに』との批判だけはかわすことができる、との思い込みから脱却する必要があるのではないだろうか。

 私は警報の自己責任を認めつつ、それでもなお信頼される警報への発信者の自覚がこれからは今まで以上に望まれてくるのではないかと感じているのである。そして今の警報システムには、そんな基本的なことすら忘れられているように思っているのである。そしてあえて発信元がそんなことを、忘れた振りをしているのではないかなどとは考えないようにしているのである。


                                     2017.8.26        佐々木利夫


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警報と自己責任