間もなく始まる衆議院選挙に寄せて、朝日新聞がタイトルのような特集記事を組んでいる。その第一回が「危機に耳塞ぎ『身内ファースト』」と題する哲学者の内田樹氏の提言であった(2017.10.2)。

 安倍総理大臣が民進党が弱体化していると判断して総選挙に打って出たにもかかわらず、小池東京都知事による希望の党と称する新党の登場、更にはその党への民進党の擦り寄りなど、政局が混沌としてきていることを取り上げ、内田氏は「・・・このカオス的状況を歓迎する気分にはなれません」と断じる。

 そして「・・・政策の一貫性や論理性よりも、『明日の米びつ』を優先的に配慮する政治家たちが、文明史的な転換に対応できる能力があると私は考えません」と切り捨てる。そして世界中の政治が同じようになってきているが、だからと言ってそれで心がなごむことはないとこの投稿を結ぶ。

 言っていることが分らないではない。ただ私も同じような轍を踏んでいることを、嫌になるほど自覚していて、それが気になっているからである。それは「言いっぱなし」であることである。好悪にしろ理屈に合う合わないにしろ、「言うだけ」では何事も解決しないと思うからである。

 だから、「じゃあ、お前はどうなんだ」と反論されると赤面するしかないけれど、少なくとも私の能力では解決させるだけの提言はできないと認めざるを得ない。問題があること、解決しなければならないことは、私の回りだけに限らず世界的にも、山のように存在している。棚が壊れた、蛍光灯の点灯が悪くなってきた、トイレの水漏れが始まったなどなど、自力で解決すること(もしくは解決のために努力できること)は皆無ではない。

 それでも私に出来る範囲など小さなものでしかない。もしかしたら夫婦関係や親子関係などだって、どこまできちんと分かり合っているかは、まるで保証はない。ましてやここで毎週発表している様々なエッセイの内容だって、解決できないことの羅列になっていることくらい分っている。

 だからこんな自分だけの小さなホームページで、屁理屈を並べて自己満足しているのだと言い訳するつもりはない。解決できるほどの能力も提言も、もしかしたらヒントすらも発信する力さえも持っていないことを自白する以外にないからである。

 だから、書きながらいつも、自分の不甲斐なさに落ち込むような気持ちに襲われている。私の書くものなど、答えのない質問、答えのない疑問、答えのない理想みたいなものを、ただ連ねているだけだと思えるからである。

 誰の本だったか忘れてしまったが、題名だけはしつこいくらい頭から離れない題名の本がある。「だから、どうなんだ」というタイトルである。何かついて書くたびに、この題名が繰り返し頭に浮かんできて離れないのである。どんなテーマにも、「だから、どうなんだ」、「お前は、どうしたいんだ」、「そのためには、どうすればいいと思っているんだ・・・」、そんな言葉が頭に浮かんできて、なかなかそこから私を解放してくれないのである。

 そんなことを、この哲学者の提言にも感じてしまったのである。確かに彼の言うとおり、世の中は混乱しているのかもしれない。その状況を「混沌(カオス)と名づけたくなるほど、行き先の見えない状態が続いているのかもしれない。

 それでも、そんな状態をいくらあげつらっても、解決には結びつかないと思うのである。哲学者が一人いれば、世の中の諸問題が一挙に解決する、とは思わない。問題点を指摘するだけで物事が解決するのなら、世界にそもそも混乱状態など起きないだろうからである。仮に起きても、指摘した瞬間に解決してしまうだろうからである。

 「世界中の人が一人残らず平和を望むなら、世界は平和になる」、そんなことくらい誰だって分っている。あることを捉えて、「それが悪いことなんだから是正すべきだ」と提言するだけでその「あることが」解決できるのなら、世の中に問題となる事柄など起きることはないだろう。

 混沌の意味についてはかつてここへ書いたことがある(別稿「荘子聞きかじり」参照)。大雑把に言うと、目も口もない混沌という生物がいて、人間と同じように口や鼻など七つの穴があってはじめて幸せになれると信じた者がいた。そこでその生物の幸せを願って七つの穴をあけたところ死んでしまったという話である。それはつまり、人を多様さをもつ存在としてあらかじめ承認することが大切だと理解するところから人間への理解を始めようとするものであろう。

 それは言うなれば、一つの結論にこだわってはいけないとの意味でもある。「べき」とか「こうすることだけが正しい」などの考えを押し付けてはいけないということである。

 もちろん、「私の考えこそが正しい」と主張する権利は認めることにやぶつかではない。この哲学者がどんなことを考え、世の中をどんなに憂えたとしても、それはそれでその人の考えなのだから自由に発表して構わないと思う。でも、自らの肩書きを哲学者として紹介されるような記事を、新聞という公器に投稿するのであれば、「自分がこう思う」こと以外に、「私はこのように思うけれど、そう思わない考えもまた正しいのだ」とする程度の寛容さが欲しかったと思ったのである。

 彼の論調が大衆迎合だとか、独断過ぎるなどと思っているわけではない。多様な思いの中には、自説も当然含まれることになるけれど、自説と反するような考えだって、世の中には例えば政治家や外国人や経済人、更には幼稚と思える子どもや青年や口やかましいオバタリアンなどなどとして存在していることをあらかじめ承認すべきだったのではないかと思ったのである。多様な人がいて多様な考えがあること、それぞれの考えがたとえ自説とは矛盾するとしてもそれを正しいものとして承認することで世の中が成立しているのだということを、少なくとも哲学者の論調として書き添えてほしかったのである。


                                     2017.10.14        佐々木利夫


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混沌(カオス)の正体