先週の「捨てるメモへの墓銘碑」の続きです。メモがまだ残っているものですから・・・・。

 6 記者殺害と共謀罪
   朝日新聞の記者が殺害されてから30年、一方で共謀罪で飲食店での雑談でも拘束されるのではないかとの議論がある。朝日新聞の事件では一万人の容疑者があがり、結局犯人は特定できなかったまま30年である。私はこの一万人について思ったのである。仮に冤罪の可能性があるにしても、犯人の確定は裁判である。人は「疑われ」、「事情聴取され」、そして「逮捕・拘束」され、裁判へと移行する。そこに「疑われる人」の存在を否定できないのである。「疑われること」そのものを否定することはできないのである。


 警察なり刑事司法の目的は犯罪の確定であり犯人の特定である。始めから犯人が特定されているような事件だってあるだろうけれど、多くの場合その前提として「疑わしい者」、つまり容疑者の存在が不可欠であろう。容疑者の中から司法は証拠をもとに犯人を特定するのである。それは刑事事件として当たり前のことであり、そのことに異を唱えようとは思わない。ただ、逆に言うなら「疑いを抱くこと」は誰からも非難されることのない司法に与えられた一種無制限な特権である。「疑うこと」は司法に与えられたフリーパスである。そんな無制限な特権であることに、私はどこか違和感を覚えている。果たして「疑う権能」は、司法にフリーパスで与えられていいものなのだろうか。

 7 「東電に感謝」は変
  いのししによる被害で、原発被害で退去中の我が家の台所が滅茶苦茶、町役場に連絡したら東電になんとかしてくれる部署があるとのこと。直してくれた(恐らく無料)東電を見直した・・・、こんな読者投稿が新聞に載った(2017.3.27、朝日新聞)。どこか変である。投稿者も変、支援した東電も変、更に言うなら掲載した新聞社も変、

 
東電の行った行為を、「お前が加害者なのだから当然の行為だ」とばかりにふんぞり返ってもいいではないかと言いたいのではない。でも「明日への希望を感じる」、「東電を見直した」との表現にまで結びつくのには、私はどうしても理解できないのである。

 8 シュミレーションの怪
   2017.3.14朝のNHKニュース、利根川決壊の予想をシュミレーションで確認したという。それは支流の堤防の高さや降雨量などの詳細なデータを入力した結果によるのだと語る。つまり、プログラムで予想した結果をシュミレーションと称して発表しているのである。
 「風が吹けば桶屋が儲かる」式のプログラムを組んだら、風が吹くと必ず桶屋は儲かるのである。

 
いまやコンピューターは一秒間に数京回もの演算能力を持つようになり、それでもまだ不足していると例えば量子コンピューターなどが模索されているものの、少なくとも人間の能力を遥かに超える能力をもっている。そうしたマシンを使って複雑な計算を短時間で行う予想が、いわゆるシュミレーションである。む

 私がテレビなどで得た知識だけでも、宇宙の起原から現在までの経過、世界の気象予想、新薬の開発などなど、多岐な分野にわたっている。でもそれはプログラムの結果でしかない。答が出るように組んだプログラムの結果として表示された答えにしか過ぎないのである。
 惑星が衝突するとこんな結果になる、銀河同士が衝突するとこうなる、などなどがテレビ画面にカラーで表示される。しかも、時間軸は数千万年、数億年、数十億年が単位である。地球温暖化のシュミレーションもある。数十年、100年が単位である。

 シュミレーションはプログラム作成者の願望なり期待の反映ではないのだろうか。可能性がないとは言わない。これだけ発達した天気予報だって明日の天気は単なる予報でしかない。予知や予報は、ある事実に近づいているのかもしれないけれど、「予報が事実」になることはないのではないだろうか。そうしたシュミレーション結果を、あたかも「間違いなく起きる既成の事実」であるかのように発表するのは、単なる驕りになってしまっているのではないだろうか。

 9 最大多数の最大幸福(ベンサム)
   多数決になってしまう。なぜなら、「最大多数=多数決結果」だからである。


  多数決は、少数良く多数を制するを基本としている。少数意見に耳を傾けることの中に、多数もまた共に幸福になれるのだと理解させる力が秘められているとする考えである。だが現実の多数決は、「多数は正しい」ことだけを基本に動いている。そしてその結果は「少数を無視する」、「少数は考慮しない」、「少数は置き去りにされてもやむを得ない」、そうした思いへと結びつく。
 ただそうは言っても、100パーセントの多数に向けての正義の実現は事実上無理である。どんな場合にも「少数が存在する」という事実を避けることはできない。そこのところの調整が私の中でついていないことが、このメモを生かせなかった原因になっているのだろうか。

 10 最強AI
    2017.1.6の朝日新聞の記事がメモに貼られている。内容は「最強AI囲碁界驚嘆」の見出しで、内容は「年末年始、ネット上の囲碁サイトにハンドルネーム「Mastor(マスター)」なる「棋士」が参戦し、非公式ながら世界のトップ棋士とみられる対戦相手に、今月4日までの一週間で60勝無敗という脅威の戦績を上げた」とするものである。

   囲碁でも将棋でも、もっと身近にはオセロやマージャンなどでも、人間をしのぐコンピューターの存在が珍しくなくなってきた。「ディープランニング」と称する、大量のデータ処理のプログラムがこれまでにない人工知能の分野で活躍していると言われている。インターネットやスマホを通じて私たちは大量の情報を垂れ流しにしている。ディプランニングがそれらの無限とも思えるデータをどのように処理しているのか、私にはまるで理解できていない。それでも、「ゲームに強いプログラム」、「無敗の人工知能」という事実は曲げられないだろうか、それはあくまでルールの制約されたゲームの世界に限られるのではないかと、私はどこかで確信のような気持ちを抱いている。人工知能は、「人まね」はできるかもしれない。でもそれは人の真似をしているだけであって、本当に「嬉しいこと」、「悲しいこと」などを人間と同じように「感じること」はできるのだろうか。泣き顔の表情をし、涙を流すような技術は可能であろう。でもそれは「人間のふり」をしているだけであって、いたわりや怒りや共感する気持ちを、人工知能は持つことができるのだろうか。現在も、将来も・・・・。



                                     2017.11.9        佐々木利夫

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捨てるメモへの墓銘碑・2