先週の「捨てるメモへの墓銘碑・3」のつづきです。

 15 種を守るか、個を守るか
    「自分だけ良ければいい」・「グループの中で自己の位置を確保する」→「利己から分け与えることへ」→「集団の意識」→「独裁者の排除」→・・・・「人間はどうか・空気・緑・資産」→「共有資源の分配」→「「恥の意識の持つ力」→「どこまで力を持てるか」→「社会を変える力になれるか」
    ↓→「何が恥なのか」(協調性の力とは何か)→「ズルを図る人々の存在」

    
このメモのタイトルと「恥」のイメージが結びつくようで結びつかない。「恥」の発想そのものが、このテーマに比して余りにも大きすぎるからなのかもしれない。それでも、人間の抱く「恥」の観念には、どこか魅力を感じている。恥は人間特有の意識なのだろうか。恥の源泉はどこにあるのだろうか。私には解決できそうにない、どちらかと言えば壮大なテーマである。

 16 国家に何を期待している?
   グローバル化が進むと国家の影響力は低下すると言われてきた。けれど逆に最近、国家なるものの存在感が高まっている気がする。国家の存在意義。問い直されているのだろうか(2017.1.5、朝日新聞)。

   
こんなタイトルと導入部で始まる新聞記事が朝日新聞に掲載された。記事は「保育園落ちた日本死ね」とする昨年2月に書き込まれたネットでの匿名ブログをもとに、日本という国家をどう考えたらいいのかへと拡大し、それにトランプ米大統領の移民政策を重複させる。トランプ大統領の信条は、「アメリカファースト」つまり自国の利益第一に集約されるだろう。「世界の警察」の自負から「アメリカファースト」への転換、こうした気風は今や世界に満ち満ちてきている。その一方でグローバル化は、自国のみの利益の追求は観念的にも事実上も不可能になってきている。そして国民もことあるごとに国家に向かって「何とかせい」の大合唱の声をあげる。してくれるもの、しなければならないものとして「国家」は存続しているかのようである。そしてそれは、かつて主張された「予算がない」、「金がない」は要求を拒否する理由、もしくは「満足させられないことの理由」にはならないとする司法の流れにまで発展していっている。私たちは、国家という組織を、どこまで期待できるのだろうか。

 17 意見の引用
   「・・・という意見があります」と表明している解説や講義みたいな論調をよく耳にする。「・・・と言う意見」がどこの誰の意見なのか、どんな風に集めた世論なのか、その出所は少しも示されることなく、ただ単に「・・・あります」だけを唐突に掲げるだけである。しかもその意見の使いかたは、自らの主張を補強する手段として用いることがほとんどである。そして、「だから、今後十分な検討が必要である」と結論付けることで、あたかも自らの見解こそが正しく、しかも社会の多数が支援している意見であるかのように位置づけるのである。
 こうした構成は、BSテレビでの放送大学の講師の講義に多用されているように思える。


 
 講師のこうした講義の構成は、あたかも自説が正しいことを認める意見が多数であると、証拠も提示せずに主張していることと同じである。こうした使い方は、例えば商品の宣伝などで珍しくはない。映画俳優の○○さんもご愛用しています、だとか歌手の××さんが推奨していますなどは昔から当たり前に存在していたからである。それでもその場合には、嘘にしろ誇張にしろ、○○さんや××さんの思いがそこに表れている。にもかかわらず、「・・・とする意見」の引用には、その程度の出所すらも示されていないのである。

 だがこんな引用が、放送大学という番組で、四角四面の講師の口から出されることで、一層腹がたってくるのである。学者が自らの考えの補強するものとして他者の見解を「・・・とする意見」として引用するのであるなら、その引用先をきちんと示してこそ補強になると思うからである。そんなこともせずに、単に自説に有利であることだけを利用しているこうした引用は、学者の学者であることを、自ら否認しているように思えてならないのである。

 18 日本型、欧米型
    日本型よりも欧米型のほうが「はるかに優れている」と言いつつ、「だからと言って、アメリカのようにそれを神聖視するのは、・・・社会の硬直化を生む」(P214)。だから「日本人はその欠点を自覚した・・・懐疑主義、つまり欠点を自覚した上で信奉する」(P215)ことが大切だと言う。そのことは良く分る。一つに固執せず、両者の良い点を探っていく必要があるとする意見は、それなり分る。その通りだと思う。だが「話せば分る」みたいな通説が通用しないのもこの世界なのである。世界大戦にまでなった日本も悪だし、中国も米英もイスラムも、世界中が間違っているのである。


   読んでいる本の途中での感想なのだと思う。かぎカッコの末尾にページを付しているのは、引用個所なのだと思う。だが、どんな本からの引用なのか、このメモには何も書かれていない。それはつまり、このメモを発展させるだけの思いが私のなかで熟成しなかったということなのだろう。

 19 一致、不一致
    不一致に対する疑問〜いわゆる犯罪もので鑑識の活躍をテーマとしたテレビでの話しである。もちろん使用している機器の能力は、それが本物かどうかはともかく少なくともドラマ上ではハイテクとされている。その中で、指紋や口紅やDNA・薬物などが、犯人の特定に役立つかどうかが問われる場面が多い。不一致の場面では、特に数値が示されることは少なく、単に違うと宣言されるだけである。ところが、一致の判定には機器の能力が示されることが多い。多くは「一致99.8%」とか「97.5%」などである。寡聞にして、「一致率100%」とする画面にはお目かかったことがない。


   鑑定結果が数値として示されるのかどうか、私はマシンを見たことはないし、鑑定の現場に立ち会ったこともない。だからテレビドラマを見るだけで、その機器の性能なり結果の信憑性なりを云々するのは間違っているかもしれない。それを承知で書くのだが、「犯人と一致した」とする結果数値はどこを基準に判断するのだろうか。犯罪現場にあった犯人と思われる人物の指紋が、仮に「私の指紋」と95%一致したとの判定が出たとする。その指紋は果たして「私の指紋」なのだろうか。それとも5%の誤差ゆえに、私の指紋ではないのだろうか。有罪か無罪か、判定するのは裁判員にしろ裁判官にしろ人間である。そうした条件の下で、犯罪事実もまた「確率」であるとか「統計数値」で判定されるものなのだろうか。

 指紋が100%一致したのなら、犯人かどうかはともかく、その指紋が私の指紋であることに違いはないであろう。マシンにも誤りがある、などと屁理屈をこねようとは思わない。でも90%正しい、96%正しい、89%間違いないとするこれらの数値は、どこまで正しいのだろうか。正しさもまた、一種の可能性の範囲に止まるものなのだろうか。


                                     2017.11.16        佐々木利夫


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捨てるメモへの墓銘碑・4