一昔前までメディアといえば新聞であり、やがてそれがテレビに押されるようになってきたのが今の社会だといってもいいだろう。だが最近はテレビも含めて新聞も人気がなくなってきているようである。それは若者を中心にニュースの入手経路を、スマートフォン(スマホ)を利用したSNS(ソーシャル ネットワーク システム)などに求める傾向が強くなっていることにあるらしい。

 この結果入ってくるニュースの多くがネット経由になり、しかもスマホの設定やニュースの仲介機関となるプロバイダーなどによる配信プログラムの設定などで、視聴者自らの好むニュースだけがを入ってくるようなシステムの提供や視聴者が好むであろうニュースだけを当該視聴者に提供するようなスタイルが普及し始めてきている。

 こうした傾向が、「好まれるニュースならば真偽は問わない」というような風潮を生み、いわゆるフェークニュース(嘘の情報)の蔓延を招いていると言われている。そして現実にアメリカでは、大統領の選挙結果に影響を与えるような世論の偏りまで招いていると言われている。

 大衆に対するニュースの提供は一般的に「報道」と呼ばれているが、時に提供する側が「報導・(みちびく)」の文字を使いたがるまでに増長したことすらある。だから無自覚にしろ報道する側にもある種の世論を誘導したいとの誘惑もあるだろうし、報道のすべてが公正だと言えないことくらい承知している。だが、私たちに数多に発生する事件なり事実のすべてについて、自らの力で接触し情報を集めることは不可能なのだから、結局は第三者に情報収集を委ねなければならない。

 だからこそ報道には、偏ることのない事実や正確さが要求されるのであり、それがそのまま日本国憲法における「表現の自由」(21条1項)の内包概念として確立してきたものなのだろうと思う。もちろん報道する側にとってもそれぞれに立ち位置があり、異なる考えを持つことは避けられないだろう。だからこそ前提として、与えられたニュースが事実として正確であること、偏らない編集であることの自覚が求められ、同時に受けて側にも多様な見方に接することを許す寛容さが必要となる。

 ところが、そうしたニュースに偏りが自然発生的に生まれるようなシステムが開発され普及してきたのである。それがスマホに代表される新しいメディアの登場であった。スマホとは、言ってみればインターネット世界への接続機器の一種である。ネットの世界はニュースの発信者が新聞テレビのような限定された機関だけに限られるものではなく、個々人も含めた数千万、数億人にも及ぶ世界中の誰もが発信者になれる巨大なネットワークなのである。

 こうして私が書いているホームページのへそ曲がり論だって、そうした意見に賛成するか反対するか、それとも無視するか無関心かはともかく、一つのニュースソースになっていることを否定できない現状にある。

 ニュースには正確な情報が要求されると書いた。だが何が正確かは人様々であり、個人に限らず例えば新聞社やテレビ局などの組織にしたところで、どこまで正確であることに対応できるかは大きな問題となる。その上最近は、提供する側が仮に公正さ正確さを守ったとしても、発信者と受信者とをつなぐ接続業者の力が大きくなっていること、更には受け手自身が入力そのものをコントロールできるようになってきていることが大きな意味を持つようになってきたのである。

 同じ情報の仲介と言っても、新聞の配達所は新聞社の印刷した新聞紙を宅配するだけだから、ニュースの内容にまで介入することはできない。その意味では、インターネットの接続業者も変わるところはない。しかし、ニュースソースが無限にあることから、どんなニュースを優先して受信者に届けるか、どういう順番で届けるかなどの部分に接続業者の介入、恣意が入り込む余地があるのである。

 もちろんどんなニュースを受信するかは、受信者の専権事項である。自らが自らの意思で必要なニュースを選択するのであり、また選択できるようになっている。だが人間の能力で、無限に近いニュースの中から特定のニュースを選び出すこと自体が不可能になっている。結局は提供されたニュースの上位いくつかの中など、目に付く範囲から選択せざるを得ない。

 そうしたとき、受信者の好みに合うようなニュースを、過去における受信者が使用したキーワードなどを分析し、あらかじめ予想して提供することが、現在のシステムでは可能になってきているのである。しかもそうした傾向は提供されるニュースの余白に好むと好まざるとにかかわらずついてくる広告と結びつくことで、一層強くなってきている。

 受信者の好むニュースが提供されると、結局そのニュースが受信者に選択される機会が多くなる。その結果その記事に付随している広告に触発されたり、その広告をクリックしたりする受信者が多くなるだろう。こうした視聴者の行動パターンは、「広告を見てもらうため、受信者に迎合するような記事・ニュース・記事の編集もしくは発信をする」という傾向を生み、それがインターネット世界に無視できないまでに拡散するようになってきているのである。その傾向は時としてフェークニュース(嘘ニュース)を生み出す温床にもなっている。

 しかもこれに拍車をかけるような現象が起きている。それは受信者が「ニュースの内容そのものを選択できる機能」が開発されたことである。新聞社にしろ、テレビ局にしろ、はたまた政見演説や学校の先生の話などにしろ、どんな場合も受信者はその内容を選択して身に取り入れていることになる。だからこれまでは、数多のニュースの中からそうしたニュースが正しいかどうか、好きか嫌いか、同意できるか否かなどを、人はどんな場合に判断してきたのである。

 ところが、ネット情報の拡大は、「自分好みのニュースだけが届く」、「嫌いなニュースは届かない」、そんな世界を自ら設定することを可能にしたのである。もちろんそうした機能には例えば迷惑メールなどをあらかじめ排除するというような誰にも理解できる機能も含まれるから、一概にシステムそのものを問題視することはできないだろう。

 だがこうした設定によって、「私好みのニュース」しか入ってこない環境が出来上がってしまうのである。異なった意見の中から選択するとか、気に食わない意見も一応聞いてみる、時には自らの判断と異なる意見も咀嚼してみるなどといった機会そのものがなくなってしまうのである。こんな世界には、考えそして判断するという機会そのものがなくなっているのである。


             新聞やテレビなどのメディアの持つ問題点を書こうとしたのだが、
            ネットの脅威に話しが広がってしまってそこまで届かないようになって
            しまいました。続きは別稿とします。


                              
メディアの底にあるもの(2)」に続きます



                                     2017.2.23        佐々木利夫


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メディアの底にあるもの(1)