前回(「メディアの底にあるもの(1)」)は、メディアの発信者が無数とも言えるほど多様となり、接続業者の広告への誘導から受信者が客観的なニュースへ到達することが難しくなってきたと書いた。そして更にニュースの入手経路がスマホだけの人が多くなってきて、しかも自分好みのニュースだけが届くようにスマホを設定できることから、好みに合った偏った意見に浸る環境が増幅されていることを書いた。そうした環境は、イエスマンだけしか存在しない社会である。反対者が一人もいない、専制君主だけが君臨する独裁世界である。

 そはさりながら、それもこれも社会が要求し、受信者が自らの意思で作り上げた環境である。反対意見などない安穏でぬるま湯に浸ることの出来る環境を、社会も受信者も選んだのである。そこで今回は、どうして受信者はそんな環境を好むようになったのか、どうして新聞やテレビなどの既存のメディアの人気がなくなったのかについて考えてみることにしたい。

 もちろん背景にはネット社会の拡大、スマホによる無料とも言えるニュースの入手手段の発達などがあることは否定できないだろう。もしかしたらこの他にも、本を読まなくなった大学生の増加などに見られるような活字への拒否反応、新聞紙などの印刷物を持ち運ぶことに対する抵抗感、決まった場所に設置した画面からでないと視聴できないテレビ空間への拘束感に対する反発などもあるのかもしれない。

 だが私は最大の原因は、メディアに共通する正義感みたいな意識が、どこか嘘くさく、うっとうしく感じられるようになってきたことが大きな原因になっているのではないかと思っている。

 それはメディアの主張の多くが、「正しい報道」、「国民の知る権利」に代表されるものだからである。そうした主張が間違っているとは思わない。むしろ大切で必要な要素だと思っている。ただ、そうした主張がだけを全面に出し続けていることが、社会の流れや時代の風潮に次第に合致しなくなってきているのではないだろうか。

 トートロギーめくが、「正義が正しい」のは検証なしに承認されるフレーズである。そこで私のいつもの、連続する論理の登場である。世の中、「正義」と「反正義・不正義」の存在だけで構成されているわけではない。真白な正義があったとして、真っ黒な不正義までには、純白とは限らない白、灰色の白、くすんだ黒、そして漆黒まで連続しているということである。

 純白を唱えるのはいい。だが世界も社会も、なんなら家庭も私個人も、純白で構成されていることはない。それはまさに「ない」のであって、「どちらかと言ったら白」、「時に灰色の選択をした」、「黒い心を持ったことだってある」と言った、割り切れない感情の中で人々は日々生活しているのである。

 そこで例えば新聞である。記事も読者による投稿なども、書かれていることと現実社会の乖離が段々大きくなってきているような気がする。述べられていることと、動いている社会との乖離である。書かれていることと社会の動きとの整合性がとれていないのである。

 逆に言えば、「それが新聞の使命であり役割なのだ」と断ずることは可能である。こうした主張は新聞だけに限らない。たとえば、市民運動や学生運動、消費者運動や環境保護運動から原発反対運動などまで、何かを反対する行動の立ち位置は、常に「100パーセント反対」に立つことになる。それは主張の根幹が反対なのだから当然のことかもしれない。

 だが現実世界はそうではない。「盗人にも三分の理」を根拠にするわけではないけれど、実現できないような主張、当たり前すぎて反論する気も起きないような主張、誰もが知っているのに現実的でない主張などが正論として主張されると、その立ち位置に対して「私の立ち位置はそうではない」者の不安を煽るのである。

 たとえば、「戦争は悪だ」はほとんどの人にとって否定できないまでの正論である。だがそうしたニュースを毎日毎日、繰り返し知らされてくると、「そんなこと分ってるよ」、「他に言うことないの」などと思ってしまうのである。相対的に「善である戦争」があると思っているわけではない。ただ、正論を主張するだけのニュースは、どこか味付けが足りなく感じてくるのである。

 こうした正義・正論は戦争だけに限るものではない。貧者、障害者、難民、幼児、高齢者などなど、弱者は常に保護を受けるべき立場にあるとの主張につながることも同様である。加害者は常に悪であり、被害者は善、権力は常に悪であって、支配される側はどんな場合も善であるなど、紋切り型の正義・正論が、メディアを中心に広く浸透し、読者投稿も含めてメディアの世界はそうした作られた合意に満ちているのである。

 それはいわゆる「建前と本音」の食い違いにあるのかもしれない。どんな場合も人は本音で動くとは言わないけれど、それでもほとんどの人は「本音」を基本とし、それに「建前」を被せることで生きているのではないだろうか。「本音で生きる」、これが人間としての本性なのではないだろうか。

 しかるにメディアやメディアから発言される投稿者や視聴者の意見は、「建前」だけで構成されている。そこに「生活している人間」とのギャップがあり、そのギャップがメディアと生活人とのギャップになっているということである。

 私は本音だけで紙面を作れと主張しているわけではない。悪や不善を擁護せよと主張したいのでもない。ただ、悪がどうして悪をせざるを得なかったのかの検証をして、それを知らせる立場がメディアにも必要だと思っているのである。原発反対はいいだろう。ただ原発で安定した電力供給などの恩恵を受けている私たちの日常生活、原発に関わる作業で生活している者の存在、原発に代わる代替エネルギーの開発状況などなど、そうした「原発反対こそ正義である」という主張の裏側にも敗書していく必要があるのではないだろうか。

 原発反対や戦争反対、核廃絶などの主張が仮に絶対的な正義だとしても、その正義を取り囲んでいる「不正義」が現に存在している現状を理解しないまま真っ向両断に切り捨てようとする主張は、単なる「正論の主張」の空回りとしてこれからもますます読者・視聴者などから見放されていくのではないだろうか。

 私が感じているこのテーマ、いわゆるメディアへの不信の背景には、スマホの便利さ手軽さと言った発達があるのかもしれない。でも現代は「自分の信じるものしか信じない」といった私たちの思い込みが拡散しているように思えてならない。

 事実は無数にある。その中から特定の事実だけを選択し発信することは、一つの意思でありもしかしたら一種の偏見でもある。公正な事実と言ったところで、結局は誰かの意思によって選択された特別な事実でしかない。その事実を信じるか信じないか、それを決定するのはつまるところ自身ではある。だが、発信者への信頼なしにその事実を認めることなどできはしない。そんなとき人は、自分にとって都合のいいことだけを取り入れることになる。

 そうした意味で現代は、政府にもメディにアも基本となるべき信頼が欠けているように思える。国民も視聴者もやみくもに頼るのではなく、信頼すること、信頼されることがこれほど必要とされている時代が、今まさにここまで来ているのである。メディアだけが、正義や正論、そして建前の前にあぐらをかいていることは許されない。それはメディアも含めた発信者の自殺でもあるからである。

 メディアも政治も、人々の信頼を求めていないとは思わない。だがこれだけの不信が積み重なっている事実を見るとき、私には本当の意味での信頼を求めているようには思えないのである。
 もしかしたらメディアも政治も、求めているのは信頼ではなく、いささか穿ちすぎの思い込みかもしれないけれど、「求めているのは発信者への信仰」なのではないかとすら思い始めている。なぜなら、信仰に証拠は必要ないからである。


                                     2017.3.2        佐々木利夫


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メディアの底にあるもの(2)