つい数日前の新聞に租税教育の記事が載っていた(2017.7.31、朝日)。投稿者は東京都内の税理士会の支部長であり、ポストはともかく私と同業者である。

 テーマは「子どもたちは、税金をどう学べばいいのか」という新聞社の問いかけに答える形式をとっていた。筆者はタイトルを「税への無関心は政治への無関心」と題して話を始める。税金と政治を結びつけて小学生に話すのには、いささかの違和感が残るけれど、子供向けの租税教室は私も現職時代に何度か経験をしたことがあるので、興味を持った。だが同時に、書いてある内容にどこか疑問も感じたのであった。

 筆者は税理士が「租税教室」などを利用して、税の理解に向けた授業をしていることを述べた後で、小学生に向けてこんな質問を発するのだそうである。

 教室で最初に「@税金を払いたい人?」と聞くと、反応は鈍いです。そこで「Aなぜ、そう思う?」という疑問から始めます。
   ※ 文中の@Aの表示は私が勝手につけ加えたたものです。


 ここまで読んで、「チョット待って」と思ったのである。@の質問とAの質問とは、文章として続かないのではないかと思ったからである。そしてそのことに筆者は気づいているのだろうかと思い、それとも何か別の意図があって、気づかない振りをしているか、またはその説明を省いたのだろうかとも思ったのである。

 少なくとも私は@の次に、「反応が鈍い」ではなく、直接か間接かはともかく「払いたくないと思っている」に似た反応があったのではないかと思ったのである。そうでなければ、Aの質問へと続かないからである。そして私は、筆者が省いたこの中間の「払いたくないと思っている」という反応にこそ、税金に対する最大の問題が潜んでいるのではないかと思ったのであった。

 筆者はこのAの質問に続けて、なぜか唐突に「公平な課税」へと話を進めていく。お金持ちとそうでない者に対して同じ割合で税金をかけることが公平なのか?、つまり所得が多い人には税負担の割合を少し重くし、そうでない人には多少なりとも軽くするという、いわゆる累進税率と公平とのバランスの問題である。

 だがそれにしても、筆者は@の質問を放ったらかしにしたまま、何の答えも示していないのが気がかりである。彼は、「払いたい」、「払いたくない」にかかわらず、いきなり「払わなければならないものなのだ」と決め付け、その上で「公平とは何か」に問題をすりかえてしまっているからである。

 だったら、どうして@のような質問を彼はしたのだろうか。彼は累進の公平に話題を転換した後、租税法律主義へと話題を変える。つまり税は法律で決められたルールなのだと述べ、そしてそのルールを決めるのは国民なのだと言う。

 このことは言い換えると、「@の答えにかかわらず」納税はルールとして守るべきものなのだと言い切っていることと同じである。それはつまり、@の質問そのものが無意味であることを、自ら告白しているのである。

 私は彼の言う累進税率や租税法律主義の原則に反論したいのでない。私自身税務職員として、そうした税に関わるシステムを是として仕事をしてきたのだし、税理士になってからもそうした哲学を守ってきたつもりである。

 「税は法律で定めた額より一円たりとも多くてはいけない。また一円たりとも少なくてもいけない」、こんな頑固な哲学に、私の人生がどこまで徹し切れたか、どこまで四角四面に割り切れてきたかは、忸怩たるものがないではない。それでもそうした哲学を信じることの中に、今でも続く税の世界を通じた私の生業や人生があったことは事実である。

 私が現役時代に関係協力団体の求めに応じて、ここに取り上げた新聞投稿と似たようなテーマで、機関紙に投稿したことがある(ここのエッセイにも再録してあるので、別稿「税金お好きですか」を参照してほしい)。もう10数年も前のことになるけれど、そこで私は「税金が好きか嫌いか」という質問そのものが間違いではないかと書いた。

 だから新聞の投稿でも、少なくとも最初の質問@は、してはいけなかった、もしくは少なくとも文中で質問の意味や意図が間違いであったと訂正すべきではなかったかと思ったのである。

 税金が社会や国などの維持のためにどうしても必要であること、そしてその使途や目的などに常に国民が監視の目を向けていく必要があることはきちんと理解させる必要がある。ただ、そうした様々なシステムを承認し納得することと、「税金を払いたいか」という質問とは相容れないと思うのである。「納得していても、払いたくないと思うときがある」との誘惑が生じることを、私たちは理解する必要があるのではないだろうか。そうした気持ちを承認せよとか、脱税者にも穏便な扱いをせよとか、時に脱税も許されるのではないかなどと言いたいのではない。

 そう思うのが人なのだということであり、それをこの新聞記事の投稿者のように「税金を払いたくなりなさい」とか「税金を好きになるべきだ」という方向へ、納税者の気持ちを誘導しようと考えるのは、そもそもが間違いなのではないかと思っているのである。

 こうした議論はいわゆる正論として出てきがちである。そのたびに私はいつもこんな話を思い出す。直接聞いたのか、それとも人伝てだったか今となっては忘れてしまったが、こんな話題である。

 生命保険の外交員が語ったという話である。「私は生命保険が必要でないというどんな議論に対しても、きちんと反論できるだけの用意はできている。相手に「参った」と言わせるくらい完璧な理論装備はできている。でもお客さんから、「分った、分った。でも今は保険に入るつもりはない」と言わせてしまったら、私の外交員としての理論も能力も何の意味もない」、そんな内容だったと思う。

 租税がルールであることや義務であること、そして必要であることなどは、納得にはつながるかもしれない。だが「嫌いな人」を「好きになれ」と、他者から言われて好きになることなどないように、「払いたくなる」こと自体無理な話なのである。そうした無理を分った上で、納税を納得し理解してもらう努力が租税を扱う者には必要なのである。人は決して「税金を払いたくなる」ことなどない、そんな風に私は頑なに思い込んでいるのである。


                                     2017.8.4        佐々木利夫


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納税への好悪