つい数日前(9月3日)に埼玉県で、高校一年の男子学生が女子高生とその交際相手の16歳の男子高生を刃物で突き刺すという事件が起きた。女は重傷であるものの一命をとりとめたようだが、男性は死亡した。どうやら、加害者と重傷の女子高生とは元交際相手であり、いわゆる「男女関係のもつれ」が原因のようである。

 この報道を見て、昔ながらに言われている「俺の女に手を出すな」の思想が今でも変わらずに続いていることを知った。だからと言って、殺人にまでなってしまったことを是認するつもりはない。それでも事件そのものはそれほど猟奇的ではないし、どちらかというならありふれた、まさに「男女のもつれ」として、昔ながらの珍しくもない事件の様相を示している。

 ただ、この事件を聞いたときに、反射的に「俺の女に手をだすな」の言葉が浮かんできて、「俺の女」という、いわば所有権に類似した思いにとらわれる人の思いに、どことなく切ないものを感じてしまった。そして人はどこまで所有という観念を拡大してしまうのだろうかと、ふとこの事件に哲学的な思いまで感じてしまったのである。

 私たちの社会は、もしかしたら「所有権」という観念で成り立っているのかもしれない。私たちは、それが個人であるにせよ、はたまた法人や国家であるにせよ、社会の中でその多くを「所有権」という枠内で律しようとしているような気がする。社会における人間関係を律しようとする法律に「民法」があるけれど、民法は第三章の全部を所有権の意味や効力などに充てている。最高法規たる憲法もまた所有権という言葉こそ使っていないものの、「財産権は、これを侵してはならない」(29条)としてその不可侵性を保障している。

 見る限り、まさに所有権は絶対的な権利として構築されている。例えば今、私の事務所の見渡す限りは、私の所有権で埋め尽くされている。鉛筆やボールペンはもとより、テレビやパソコン、プリンター、電話機、ゲーム機の果てまで、私の所有権がこの場に溢れている。もちろん事務所全体は借家であり、パソコンとインターネットをつないでいるルーターと称する機器は電話会社からのレンタルである。だが、そうした数種以外は思いつかないほど、私の回りには私の所有権がひしめいている。

 ところで例えば、「この腕時計は俺のものだ」と主張したとする。しかし、それはどこまで正しいのだろうか。かつて、「所有権の証明は悪魔の証明だ」という話を聞いたことがある。つまり、当たり前に私のものとして考えられている私の左腕にはまっている腕時計にしたところで、それが純粋に「私のものだ」という証明はとても難しい、もしかしたら不可能に近いという意味なのである。

 なぜなら、この時計が他人から盗んできたものだとするなら、ぞれがどんなに長期間私の腕にはまっていたところで、それだけで私のものとはならないのは当然である。また、私はその腕時計をレンタル店もしくは友人などから借りて使用していることだって考えられる。また、自分の金で買ってきたと主張したところで、その腕時計の型番なり製品番号と購入した年月日や店舗などをどこまできちんと証明できるかと問われるなら、その時期が数年十数年前にもなると恐らく不可能とも言えるだろう。

 長期にわたって私が使用してきたことを仮に何らかの方法で証明したとしても、それが私の所有物であると推定されるかもしれないけれど、所有権の証明にならないことは理の当然である。

 ところが所有権は私たちの生活の基本を占めている。自宅を持ち、衣服を持ち、家財を持つなど、少なくとも外形的に存在するいわゆる「有形物」について、その所有者が特定されることで社会が動いている。所有者が一つであることを前提に、スーパーで夕餉の買い物をし、電気屋で冷蔵庫を買うなどの生活が動いているのである。たとえ所有権という考えがフィクションに過ぎないとしてもである。

 そうしたフィクションに私たちは余りにも馴れてしまっているのではないだろうか。例えば「この土地は私の土地だ」と主張するとする。そしてその通りの形で登記所には登記簿が存在している。そのことに私たちは何の疑問も抱かない。あたかも最初から私の土地であることが決定されていたかのようにである。

 だが考えてもほしい。売買や先祖代々からの相続などで、土地の引継ぎが仮に認められるとしよう。しかし果たしていつからその土地は私たちの先祖のものになったのだろう。他者から奪ったのだとするなら、どんなに売買や相続を繰り返したところで、所有権は発生しないだろう。原始的な所有権がそもそも存在しないからである。所有権が発生しないところに、売買だとか贈与だとか相続なども発生しないことは当たり前のことである。そもそも土地の原始所有権が特定の個人に存在していたことなどあったのだろうか。

 そうした所有権にも似た錯覚が、物を離れて精神的な分野にまで拡大していっているような気がする。それがタイトルに掲げた「俺の女に手を出すな」の思いにつながるものである。奴隷制度のない現代において、他人を所有するという観念のないことは明らかである。にもかかわらず男子学生は、そこにあたかも女子高生(もしくはかつての恋人)に対して所有権に似た感情を重ね、「俺のもの」との錯覚を抱いている。

 所有権の本質は、「使用」、「収益」、「処分」の三つにあると言われている。この三者の全部について、彼は彼女を独占できるのだと感じている。それは単なる願望であることを超えて、所有権の実体にまで及ぼうとしている。そして一番の問題点は、彼が所有物であると信じている彼女にも、独立した意思のあることを認めようとしないことである。「私の思い」だけがそこにあり、「彼女が彼のそうした思いにどう感じているか」への配慮がまるで欠けている。むしろ彼女がどう思っているかは無関係であり、無視しているのである。

            どうも結末がつけにくくなってきました。続きは「所有権の暴走」に委ねます。


                                     2017.9.16        佐々木利夫


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俺の女に手を出すな