先週の「
俺の女に手を出すな」からの続きです。
別れた恋人や一目ぼれの相手に対する一方的な思いを、相手への所有権とからめてしまうことが間違いであることくらいは、誰にでも分る理屈かもしれない。それでも「彼女は俺のものだ」、「私だけの彼」という思いが、少なくとも彼や彼女の中ではきちんと成立しているだろうことくらいは理解できる。仮に今度の事件のように、思いの果てが殺人に及んだり、ストーカーになったりしてしまうとしてもである。
こうした誤った考えを、単に所有権の逸脱みたいな思いだけでは整理できないのかもしれない。それでも、「愛する相手は私のものだ、私だけのものだ」と思うからこそ、「だから思うがままにしたい」と思うのであり、それが叶わないときにそれを疎外すると思われる諸事情を排斥しようとするのもまた、理解できないではない。
そして他者の排斥も所有権の重要な要素である。所有とは自らによる支配を確立し他者を排除することでもあるからである。そんなふうに考えてくると、世の中には所有権に類似した機能を持つ仕組みが多々あることに気づいてくる。
つい数日前に、北海道襟裳岬でゼニガタアザラシの捕獲作戦が始まった。また、稚内の宗谷岬ではゴマフアザラシの秋の捕獲作戦がなされるとのニュースも読んだ。一見所有権とはかけ離れているように思えるけれど、その背景には漁業被害がある。これらのアザラシは、猟師たちの収入源であるホッケやシャケやカレイなどの漁獲物を横取りしてしまうからである。
つまり、私たちの物である魚を、アザラシが勝手に横取りしてしまうことの防止策として、この捕獲作戦が行われているいるのである。私の魚、私たちの魚、大切な収入源たる漁獲物の所有権を犯す、不埒な加害者がアザラシというわけである。
こうした思いは、一見したところ当たり前のように感じる。だがほんの少し考えてみると、この発想は人間による非常に独断的な身勝手だということが分ってくる。そもそも海の魚に所有権という発想を抱くことそのものが、人間の驕りである。人間が勝手に決めた、例えば漁業権とかいう縄張りにおける主張でしかない。それを仮に無種物先占(持ち主のいない物は、早い者勝ち)という権利を認めたところで、アザラシが魚を食うことを非難する根拠にはならないだろう。逆に、アザラシのほうに分があることになる。
鹿や熊による農作物の被害も同様である。農作物は農家が畑を耕し植えつけたものだから、そこに所有権を認めてもいいという論議があるかもしれない。だが所有権とは、所有権を承認する人間社会だけでのルールである。所有権というルールを、犬やキツネにも認めていいのだろうか。
こんな風に考えてくると、私たちの社会は所有権が混乱している社会だといってもいいのかもしれない。もしかしたら、DV(ドメステックバイオレンス、家庭内暴力)であるとか、育児放棄などは、自分の子は「私の所有物」みたいな錯覚がそこにあるのかもしれない。そしてその更なる延長に、親子の道連れ心中や老夫婦の無理心中などがつながっているような気がする。
またゴミ屋敷なども、「これはゴミではない、私の財産だ」とする所有権の混乱がそこに現れているように思える。そうした感情は、「ここは我が家なのだから、その我が家で大音量で音楽を聞こうが、足踏みしようが勝手ではないか」などへと拡大していく。
更に最近は、その所有権が不明確になった状態で放置されたままの状態が問題になっている。主に不動産について言われているようだが、例えば先祖の土地・建物がその所有者の死後、放置されたままになっていることである。法的にはその不動産は相続人のものであり、その相続人が遺産分割なりで相続すべきものである(民法896条)。相続人が死亡したときは同じようにその相続人に引き継がれることになる。
もし仮に相続人が不存在ならば、その財産は遺言や特別縁故者(同958条の3)などの街灯がない限り、国に帰属することになる(同959条)。だが相続人がいることが確認されたとしても、それだけで自動的にその相続人に財産が移転するわけではない。相続人間での分割協議が必要である。ましてや所有者の死亡後長時間を経ると、その相続人の幾人かが死亡したりしてその更なる相続人が新たに発生するなど、複雑な様相を呈してくる。ましてや相続人間で親密な付き合いでもあれば別であるが、音信不通などが重なると相続人の所在そのものが不明な場合も出てくる。
それでも、「相続人が存在すること」がはっきりしている以上、いやいや「相続財産を引き継ぐべき相続人や特別縁故者などが皆無である」ことが立証できない以上、その所有権を例えば国が引き継ぐことなどできないのである。つまり、ここまで所有権というのは「絶対的権利」として君臨しているのである。
日本には、こうした「現時点での所有権者」が明らかでない土地が、少なくとも全国に九州に匹敵するくらい存在していて、公共事業などの支障になっているようである。
土地だけが所有権の妨げになっているわけではないだろうが、私たちの先祖が勝手に線引きして主張した縄張りが、いつの間にか「所有権」の名を借りて暴走しようとしている。それは「その人の物」という範囲を超えて、所有権単独で生き抜こうとしている。
「俺の女・・・」で始まった所有権への疑問だが、ことはそれを超えて人種を意識した場合の奴隷や人身売買、農漁業の収穫物をめぐる自衛のための被害排除、そして「物」への所有権にまで及び、所有権はいまや私たちの生活から離れようとしないところまできている。それどころか、本来「私の物」という意味を持っていた所有権は、「私」を離れてしまってもまだ亡霊のように生き続けているのである。
それはやがて、「我が国」とも言うべき領土意識にまで拡大していっている。改めて私たちは、この限られた地球上の陸地である土地を、所有権という発想で分割してしまうことの愚を、もう一度考え直してみる必要があるのではないだろうか。
2017.9.21
佐々木利夫
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