鷺(サギ)の駆除を依頼されたハンターが、繁殖を目的に放鳥されていたメスのコウノトリを誤って撃ってしまったという事件があったそうである。島根県雲南市でのことらしいが、この事実を取り上げた記事は「何とも気の毒な事故である」と書いていた(2017.5.25、朝日新聞、天声人語)。

 銃の先に見える物体がサギなのかコウノトリなのか、ハンターでも見分けがつかないほど似ているのか、そこまでの知識は私にはない。また私は、誤射してしまったことをここで書きたいのでもない。この記事で感じたのは、「命の差」があからさまに表れていること、そしてその事実が記事のどこからも感じられなかったことについてであった。更には、もしかしたら「命の差」に対する感覚の希薄化は、世の中の多くの人にまで広がっているのではないかということであった。

 つまり、一方が駆除の対象とされ、他方は保護鳥として繁殖を望まれているという差の余りの違いと、その違いに少しも気づいていないように思える記事にどこか不自然さが感じられてならなかったのである。

 この記事によると、コウノトリの保護には大変な努力がされている。単に飼育して成長した後に、山野に向けて放鳥するというだけでない。そこには国や県や市町村のみならず、近隣住民まで巻き込む熱心な保護の姿がある。営巣地の近くでのことだろうが、その態様には「車での通行をなるべく避ける」、「あぜ道の草刈りを先に延ばす」、「こいのぼりをやめた家もある」など様々である。書いてはいないけれど、もしかしたらコウノトリが自給する餌を確保するために、田や池などに小魚やカエルを飼育したり自然繁殖の育成などまでしているのかもしれない。

 コウノトリが誤って撃たれたことに対する住民の気持ちは、この記事に引用されている老人(71歳)の一言「心のあかりが消えたみたい。お年よりも子どももがっかりしています」からも感じ取ることができる。そしてこれを書いた記者はなんと、このコウノトリを「瑞鳥」と呼ぶほどにも入れ込んでいるのである。

 かたや、サギははじめから駆除対象とされている。この懸隔の甚だしさはどこにあるのだろう。サギは増えすぎて農作物等に被害を与えている、対してコウノトリは希少種なので大切に育てよう、市民もそのことに協力しようということなのだろう。そうした気持ちがまるで分らないというのではない。恐らくそうした気持ちの重さに対する違いが、サギとコウノトリに向ける姿勢の違いに表れてきているのだろう。

 こんな例はこの記事に限らず、様々な動物でけっこう見ることができる。例えば鳥に限定しても、大切に保護されている種としてトキや丹頂鶴や大鷲やふくろうなどなど、様々を思いつくことができる。

 そのことはいい。そうした気持ちが理解できないではない。ただ、そうした違いがあることに対して、私たちが余りにも鈍感になっていることが気になるのである。命に差があることは認めてもいい。トリアージで、「生きているけど治療しても無駄になる命」、「もしかしたら助かる命」、「手当てしなくても助かるだろう命」などなど、治療方針を区別することがある。人間の命一つとっても、そこに差があるだろうことを認めざるを得ない。

 人種にも、異宗教にも、住んでいる地域にも、その人その人に関わる他者との血の濃さにも、ペットと野良猫にも、ゴキブリと蛍などにも、人は命まで含めて「差」があることを認めてきた。恐らくそうした基本は、「我が身と他人」にまず現れてくるのだろう。そしそうした延長にいじめがあり、差別があり、人種の偏見があるのだろう。そうした現実を批判しても、せん無いことかもしれない。もしかしたら、人はそういう風に作られているのかもしれず、そういう風に作られてきたからこそ、逆に生き延びてこられたのかもしれないからである。

 ただこの天声人語の記事に私が感じたのは、筆者がコウノトリに対する誤射を、単に「かわいそう」という側面からだけしか見ていないことについてであった。サギは生きているのであり、死んだのはコウノトリなのだから、「かわいそう」だけですむと筆者は思ったのかもしれない。でも、その背景にサギは駆除されて当たり前との思いがあることに筆者も読者も気づいていないのである。そしてそのことに、どこか納得できない思いが残ったのである。いやいやそれ以上に、私にはその「差があるのが当たり前」とする思いへの気遣いさえ存在していないように感じられたのである。

 つまり筆者の頭には、「サギが駆除される」ことへの思いそのものが、存在していないのである。私は「サギを守れ」とか「サギの命もコウノトリと同じように尊重せよ」と言いたいわけではない。サギにも命のあることが記事からはまるで感じられないことに、そしてそうした記事を素通りして読んでいるであろう読者に、私たち自身が命に差のあることに鈍感になり鈍磨していることを改めた裏付けられたように思えて、悲しくなったのである。

 そんなことくらい、どこでもどんな時にもあるじゃないかと言われてしまえば、それまでのことかもしれない。カラスを駆除し、野生の熊を駆除することは当然と考え、蝿や蚊の絶滅はむしろ望ましいことだと人は考える。そんな思いが、もしかしたら異質の排除、隔離、そして差別という思いへとつながっているのではないだろうかと、ふと思ったのである。

 忘れるくらい昔のことだけれど、日本人は害虫は殺すのではなく、「虫送り」と呼んで稲の周りから追い払うことを考えたと書いたことがある(別稿「蚊遣り、草引き、虫送り」参照)。それとても「送る」ことと「駆除する」ことに、実質的な違いはないのかもしれない。「虫送り」という言葉の中に「日本人の優しさ」を見てしまうのは、もしかしたら私の身勝手な解釈なのかもしれない。それでも、「殺虫」という語を避けた日本人は一体どこに行ってしまったのだろうか。


                                     2017.6.30        佐々木利夫


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