前の回(「生物としての人間(1)」)で、人間をh=a*e+xと定義した(hはヒューマン、aはアニマル、eは進化を意味するエヴォルーション、そしてxは人間を人間たらしめている要素を示している)。そして人固有を示す要素xに「たましい」があるのではないかと書き、赤ん坊に「たましい」はあるのかと考えたところで中断してしまった。この文章はその続きである。

 赤ん坊に魂がないと仮定することは可能である。人間の赤ん坊もネズミの赤ん坊も、見かけ上も触れ具合いなどにもそれほどの違いはなく、ましてや魂の存否にまで及ぶような差まで感じられることなどないからである。ところで、どの段階から魂(たましい)の存在を認めたらいいのか分からないのだが、大人が魂を持っていることは恐らく誰も否定はしないだろう。ならば成長する過程で、ある日突然に魂はゼロの状態から忽然と湧き出してくるものなのだろうか。それともゼロの状態から、目に見えないくらいの小刻みにしろ、大人の持つ魂へと成長していくものなのだろうか。それにしてもゼロはあくまでも「ゼロ」なのだから、無から有が生じるようなこと、つまり「ゼロから発生する」ということそのものが果たして起き得るのだろうか。

 しかも私には魂が赤子から大人へと少しずつ成長していくという考えそのものが、どこか納得できないような気がしてならない。もしかしたら魂は「ある」だけのものであって、成長したり進化したりするという考えにはそもそもなじまないものなのではないかと思うからである。

 このように考えてくると、「魂は最初から存在している、赤ん坊も魂を持っている」、もしかしたら「持ったまま生まれてくる」、つまりx=aなのではないかと思えてくる。aとは変化しない固定数、つまり変数ではなくある定まった数のことである。だとするなら赤ん坊に魂はないと仮定したx=0の設定は、そもそも誤りなのではないかと思う。生まれたばかりの人間の赤ん坊にも既に魂は存在している、そう考えるのが妥当であるように私には思えてならない。

 これが私の「人としての魂」の考えである。そもそも、命の存在そのものが未知数である。現代の宇宙論によると、生命の発祥とは奇跡なのではないかと言われている。「最近数十年間の宇宙論の急速な発展によって明らかにされたことは、この地球上に生命が存在していることが、物理条件的に考えてきわめてありえない、驚異的な条件の一致による、ほとんど奇跡的な偶然的出来事であるということである」(伊藤邦武、偶然の宇宙、岩波書店、双書 現代の哲学 2002年、P144〜145)。

 命の発生がそもそも宇宙における奇跡なのだとするなら、そこに発生した生命の上澄みとも言うべき「たましい」とは、一体何を意味しているのだろうか。生命の進化の果てに魂は存在すると考えなければならないのだろうか。魂とは生命に時間を乗じた結果によるものなのだろうか。

 前掲書によれば、「現代宇宙論の標準的な宇宙の生成(創造)の説明によれば宇宙は時間のない最小の空間から『量子論的ゆらぎ』によって時間を生み出し、そこからインフレーションによって非常な短時間のうちに、急速な膨張を成し遂げたといわれる」(P146)のだそうである。

 時間もまた「あったもの」ではなく、過去のある時に発生したものだとするなら、時間とは単に過去だけのものなのだろうか。つまり、未来とは発生しつつある時間の最先端、つまり発生し続ける現在の延長上にあるだけの空想にしか過ぎないものなのだろうか。時間を絡めても魂の存在は分らないままである。

 定数にしろ変数にしろ、冒頭に掲げた方程式のxを理性と呼ぶのか、はたまた魂と呼ぶのか、分らないままである。命と魂は違うこと、それが人間にだけ備わっていることくらいは体感的に理解できるけれど、果たして言語はxの分野に含まれるのか、それともeである進化の過程に入れるべきものなのかも分らない。芸術は?、数学は?、哲学や政治や空想などなどは?・・・、こんな不確定なままにもかかわらず、こうして方程式の形にして人間を示すことはむしろ間違いなのではないかとの思いがしないでもない。

 人間にだけ魂があると私は言った。そして人間以外には魂はないとも言った。そしてその理屈を「互いが抱く共感」だとも言った。だが人はどこまで赤ん坊と共感できるのだろうか。我が子に対する母親としての共感を仮に認めたとしても、他人の赤ん坊に人は果たしてどこまで共感できるのだろうか。ましてや会ったこともなく、写真や映像でしか見たことのないアフリカやアメリカやフランスの住民と私とは、話をすることもないまま共感が可能なのだろうか。更に言うなら例え夫婦、親子、兄弟、近隣などなど身近にいる人たちとだって、もし仮に「共感できない」と私が感じたとしたら、その相手は魂を持っていないことになるのだろうか。そんなことはないだろう。

 だが私たちは「人間である限りどんな人にも魂はある」と無意識に信じている。ならばその根拠をどこに求めたらいいのだろうか。証明なしで信じるものだってないとは言えない。でもことは単なる思想であったり、好悪などの感情ではない。「魂の存否」はまさに事実の問題だからである。有るか、無いかは、事実として証明しなければならないのではないだろうか。さもなければ、魂は単なる空想の産物になってしまう。そしてそれは、「無意識に信じている魂の存在の事実」と真っ向から対立してしまうことになる。

 前述した伊藤邦武は著書「偶然の宇宙」の中で、「・・・(アリゾナ大学、天体物理学教授)ティプラーは現在、宇宙の終局において一切の魂の復活があることを物理的に説明できるという、『永世の物理学』というものを展開している」(P151)と魂の実在とその復活を紹介している。

 宇宙における生命の発祥は奇跡であり、不可能と思えるほどの例外であったかもしれない。それは逆に言うなら奇跡的にせよ無生物からの発祥だったことを意味している。ましてやそうした中で魂の発祥などは、まさに無限小に近いものだと言えるかもしれない。でも事実としてここ地球にあることは誰も否定できない。無限小に近い偶然だったにせよ、無から有が生じたのである。生物はここに存在しており、人間もまた存在しているのである。

 これはもしかしたら確率の問題なのだろうか。無限小は決してゼロであることを意味しない。どんなに小さくとも、確率として存在するならば、命も魂も無機質から確率的に派生したものとして認識すべきものなのだろうか。だとするなら私が方程式で示した「x」は独立項とすべきものではなく、単なる生命項から派生した確率変数として理解すべきものなりだろうか。つまりxは「P(a*e)」(Pは確率、プロバビリティの意味)に書き換えるべきものなのだろうか。

 長々と二回にわたって連ねてきたこのエッセイも、結局は基本となるべきxが定数なのか、変数なのか、更には確率変数なのかも決められないまま、ひたすら「分らない」をくどくど繰り返しただけのことになってしまった。そもそもが私の手に負えないテーマだったのか、私の中で未成熟な知識がフリーズしてしまったのか、それとも単なる愚者の挑戦だったのか・・・。それでもこうして命について考え、魂を論じてみるのもそんなに苦労とは感じなくなってきている自分に、どこか満足している。たとえそれが答えのない、永遠の問いかけに過ぎないとしても、・・・である。


                                     2017.2.15        佐々木利夫


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生物としての人間(2)