人間とは何かについては、昨年末に考えたばかりである(発表は年初、別稿「心と魂(たましい)」参照」。結局は「分らない」という中途半端な結末になってしまった。だから分らないものを私の中でいくら重ねたところで、納得できるようにはならないことくらい承知である。それでもこのテーマは私の中で、熾火(おきび)のように残ったままになっている。

 またしても同じ轍を繰り返すだろうことを承知の上で、人間を定義できるような方程式がふと頭に浮かんできて頭から離れないものだから、あえて再挑戦することにした。こんな方程式である。

 h=a*e+x (hは人間=ヒューマン、aは生物=アニマル、eは進化=エヴォリューション、xは人間と動物を区別するある種の要素を示している)

 a*eは人間の生物としての進化を意味している。植物は植物なりに、昆虫は昆虫なりに進化してきた。そうした進化の過程のなかで、人間を特別な存在として進化の頂点に置こうとは思わない。それぞれの種が、その種として頂点に位置しているだろうこと、しかも種としてそれぞれに完成の域にまで到達しているだろうことは、どんな生物もその精緻さをみることで十分に理解できるからである。

 そこでこの方程式の末項xの登場である。命とは何かが分っていないにも関わらず、こんな風に定式化してしまうのはどうかとも思うのだが、a*eは命を持ついわゆる生物の種としての進化である。植物よりも動物、魚類よりも爬虫類が優秀だとは思わない。ましてや霊長類が進化の頂点にいるなどとも思わない。だが複雑系へと変化し、多様な環境に適応していく過程を仮に進化と呼ぶとするなら、人はアミーバーから進化した複雑系の頂点にいることを否定することはできないだろう。

 そうした進化の過程を考えるとき、果たして進化の極限に魂は存在するのか、魂の存在は進化の行き着く先に必然として存在するのかが新たな疑問として提起される。そして私にはそれが必然であるとはどうしても思えないのである。どんなに複雑な進化を遂げようとも、進化の果てに心や魂が発生するのが必然であるとは思えないのである。

 ここまでで既に私は過ちを犯していることを自ら認めている。なぜなら心や魂の定義をしないまま、それが人間には存在していることを前提として話を進めているからである。「心や魂が人間には存在していること」、それはどういう風に証明したらいいのだろうか。

 細菌にしろ植物にしろ、はたまた昆虫や哺乳類にしたところで、今ある姿がそれぞれ進化の果てに位置していることは違いがない。もちろん現在の姿が進化の極限であるとは思わない。種として絶滅の途をたどる生物もあるだろうけれど、少なくとも絶滅するまで生物は進化することをやめないであろうからである。進化とはやめるとかやめないという問題ではなく、生きること、生き残ることそのものだと思うからである。

 人間もまた種として生存し続ける限り、進化していくことだろう。それがたとえ背中に羽が生え、テレポートのような精神力を日常生活に利用できる生物へと変化しようともである。

 蟻に魂はないのか、牛や馬に心はないのか、それを確かめることは少なくとも今の科学では難しい。昆虫や犬猫に人間と交流ができる心があるのか、魂の存在をどのようにして確かめるのかの手法はまるで未知だからである。

 未知であることをもって、存在しないことの根拠とすることのできないことくらい承知している。それは単に「あるかないか分らない」というだけであって、「トンボに魂はない」ことの証明にはならないからである。

 だが多くの生物に「命」のあることは、ほとんどの人の認めるところだろう。蛇も猿も生きていることは、恐らく万人の認めることだろう。ウィルスは生きているのかと問われると返答に窮するし、地球という物体は生きているのか、宇宙は巨大な生物だと考えることはできないのかなどと問われるなら、さらに答えに詰まってしまう。それでも私たちは「生物」という概念をある程度の共通な思いとして頭の中に浮かべることができる。

 にもかかわらず私たちは、「命」と「魂」とは別個のものであると考えている。そして疑問をもちながらも、人間以外の動物や植物に「魂」はないと思っている。その原因は、魂の定義が未だされていないことにあるのかもしれないけれど、それ以上に「人間以外とは互いの間に心や魂の交流みたいなものができない」と思っているからである。

 確かにペットに慰められると感じている人は多いだろう。時に心を通わせていると真剣に思っている人もいるだろう。そのことを否定はしない。だとするなら、ペットにだけ魂は存在するのだろうか。我が家に住み込んで毎日会話している猫にだけは心がある、そういうことでいいのだろうか。それとも、つき合いが長くなるにしたがって、動物にも自然発生的に魂が生まれてくる、とでも言いたいのだろうか。

 だとするなら、野良猫や生まれたての猫に魂はないけれど、人に飼われ、飼い主と付き合っていく中で自然発生的に芽生えてくるのだとでも言いたいのだろうか。もしそれを認めるのなら、人と付き合う以前の猫に魂はないことを認めたことになる。そして当然に基本的には人間と交流のない昆虫や猛獣や海洋の魚などに魂は存在しないと言うことを示唆している。ペットだけに心はあるけれど、ペット以外に心を持っている生物などはいない、ましてや植物においておやということなのだろうか。

 それでも人間に関しては、付き合ったこともなく見知らぬアフリカやアメリカの住民にも心や魂はあると、私は信じ、きっと多くの人も信じていることだろう。人間は互いの交流がなくとも人間であるということだけで魂を保有しているが、動物はペット(広い意味での飼育されている動物を含む)になることでしか魂を保有することはできない、こんな位置づけで魂を定義してもいいのだろうか。

 私には「魂は人間にだけあるのであって、ペットにもあるとするのは飼い主の幻想もしくは思い込みである」と定義したほうが、とてもすっきりするように思える。ペットのそれは、餌を確保するための手段としての動作であって、心の交流ではないと思うからである。

 こうした思いを確かめるために、生まれたばかりの赤ん坊に魂はあるのかを考えてみよう。泣き声や乳房へ吸い付く行為などを一種の心みたいに思う人はいるかもしれない。だが、こうした行為はあらゆる生物に共通していることだから、そうした行為にあえて魂みたいなものを考える必要はないだろう。ならば「赤ん坊に魂はない、つまり私の作った方程式でいうならx=0」であると一応仮定してみよう。

               命や魂の問題に入り込むと、いつも混乱してしまいます。
               ここまで書いて少し長くなりそうになってきたので、
               残りを「生物としての人間(2)」へ続けたいと思います


                                     2017.2.10       佐々木利夫


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生物としての人間(1)