今は家庭風呂が当たり前の時代になっているから、料金を支払って入浴する銭湯、いわゆる公衆浴場などの利用は浴室設備のない住宅やアパートの住民などに限られ、私たちの生活習慣の中から次第に消えつつある。とは言ってもまだ日本には、温泉地であるとか娯楽施設など入浴を兼ねた設備の人気も高く、互いの裸を見せたまま集団で入浴する習慣が残っている。また自宅に風呂場を持ちながらも、「自宅以外で入浴する」というイメージを求めて、いわゆる「あちこちの銭湯めぐり」を目的にしている人もそれなり多いと聞く。

 少し前のことになるが、これはそんな「銭湯めぐり」を趣味にしていると思われる男性からの新聞投稿である。「この頃の銭湯客はマナーがなっていない」とする内容であり、こんな意見であった。

 「銭湯のマナーの悪さにがっくり」 更衣スペースに腰掛が(あり)、・・・湯から上がった60歳前後の方が、裸のまま腰をかけた・・・。「下着をつけませんか」と、思わず言ってしまいました。・・・しかしその後、別の男性がまた裸で座りました。・・・今は、下腹部に掛け湯をせずに風呂に入る大人もいる情けない時代です。・・・日本のよき風習がいつまでも残ってほしいと考える今日このごろです。(東京都55歳男性、2016.9.30 朝日新聞)

 彼が主張するマナー違反の事例は二つである。一つは「下着をつけないで腰掛に座ること」であり、もう一つは「下腹部に掛け湯をしないで入浴すること」である。

 言ってることがまるで分らないというのではないのだが、この意見にはとこか違和感を覚えてしまった。お金を払って入るいわゆる銭湯ではないのだが、私の育った環境も公衆浴場であった。私は北海道の夕張という炭鉱町の炭鉱夫の息子として、高校を卒業するまで炭住(炭鉱住宅・一棟の長い木造住宅を五戸に仕切った、いわゆるハモニカ長屋)に住んでいた。そんな長屋が山間のあたこちにいくつもの集落を作り、数百棟も並んでいた。それが炭鉱夫家族の住居であり、その一戸が我が家であった。

 家庭内に水道設備はなく、バケツで共同の水場から家庭の水がめまでの水くみは子どもの仕事だった。だからもちろん家庭風呂などもなかった。その代わり長屋が一定数集まった地区ごとに無料の公衆浴場が、石炭会社の福利厚生施設として設けられていた。毎日決まった時間に開かれ、家族ともどもそこへ通って汗を流すのが当たり前の生活であった。石炭の採掘会社だから燃料は豊富にあり、会社は自前の発電所も持っていた。だから家賃や水道代や電気代はもちろん無料であり、家庭内の暖房も含めて公共的な負担はほとんどが無料という比較的恵まれた環境だったとも言える。

 もちろん石炭は当時の日本のエネルギーの根幹であり、そのエネルギーをめぐる国際競争が第二次世界大戦の引き金ともなったくらいだから、炭鉱夫の獲得は徴兵共々国策としての急務だったのかもしれない。そんなことなど知る由もなく、私は幼少を石炭に囲まれて穏やかに暮らしていた。

 その炭鉱の風呂は、一辺が10メートルもあろうかという小規模なプールほどの大きさで、一度に数十人が入れるようなかなり大きなものだった。だから集団で利用する浴場として、他の入浴客に迷惑がかからぬようにそれなりのルールがあることは知っていた。湯船の中で体を洗わない、泳いだり潜ったりしないなどはもちろん、多少湯が熱くても水を足して(水を埋めると言ったような気がする)温度を下げるようなことはしないなど、気をつけることは多々あった。

 また大人になってからも温泉めぐりが大好きで、日本各地の温泉をめぐったから(別稿「私の歩いた温泉あちこち」、「銭湯ばんざい〜道後で感じたにっぽん」参照)、それなりのマナーも理解しているつもりである。

 ただ、この新聞投稿で感じた違和感は、そうした日本人が銭湯に抱く潜在的な習慣というか思い込みが、どこから来ているのだろうかというものであった。

 投稿者の言う第一の「前を隠す」であるが、こうした行為はどこまでルールとして定着しているのだろうか。銭湯に限らないかもしれないが、ルールの基本は「他人に迷惑をかける」ことにたいする規制であろう。ある行為が他者に精神的にしろ経済的にしろ何らかの損害なり迷惑をかけるであろうことを、あらかじめ禁止することがルールの背景にあるような気がする。

 そうしたとき、「前を隠す」という行為を入浴客が実践するということは、「他者のため」、「自分のため」のどちらになるのだろうか。「目のやり場がない」など、他人の前部を見たくないと思う人がいないとは思わないけれど、それでもどちらかというと「前を隠す」ことの意味は「自分のため」にあるのではないだろうか。

 かつての銭湯での女湯の話しなのだが、「前を隠す」のではなく、「顔を隠した」という話を聞いたことがある。「前部」を人目にさらすことに特別な羞恥心があることを知らないではないが、それを言ってしまったら「裸の体全体」や「乳部」や「臀部」なども同様ではないだろうか。そして自分のそれを「隠す必要などない」と思った人がいたなら、それはそれでいいのではないだろうか。

 それは「前を隠す」という行為は、あくまでも「自分のため」にするものであって「他者のため」に行っているものではないと思うからである。それはつまり、ルールとしての要件を満たしてはいないのではないかと私は思っているのである。にもかかわらず、「自分のため」の行為をルールだと感じてしまった新聞投稿者の意識はいささか行き過ぎなのではないだろうか。

 第二点「下腹部に掛け湯してから入れ」についても、少し考えてみると疑問が湧く。このルールについては「その通りでないか」と思う人も多いと思う。でも考えても見てほしい。そうした行為の背景はなんだろう。答えははっきりしているのではないだろうか。恐らく「下腹部は不潔であり、その不潔を湯船の中に持ち込むな」にあるのだと思う。

 私はその「不潔さ」に疑問を抱いているのである。私たちは無意識に大小便を不潔だと思い込んでいる。でも本当にそうだろうか。本当に不潔なのだろうか。投稿者の言う「下腹部」の意味は「小」の部分を意味している。下腹部というだけで「小」とは断定できないのではないかと言うかも知れないが、私たちの習慣を現実に見てほしい。「下腹部を洗う」という動作は、そのまま「小の部分」を洗うことを無意識に意味しているのである。

 不潔の意味を考えてみよう。尿毒症などの例外を除いて、小便に有害な菌などは含まれていない。水の貴重な国での話だが、小便で手を洗う習慣のある民族の話を聞いたことがある。だからというわけではないけれど、「小」の不潔さは決して物理的・衛生的な意味からくるものではないということである。

 「大」も同様である。確かに海水浴場や飲料水などに、汚染の指標として「大腸菌の数」などが使われている。大腸菌を抱えているのは人間に限るものではないだろうけれど、私たちは大腸内に数百種類100兆個ものこの菌を養っていると言われている。だが、O-157などの特別な病原性のものを除いて、ほとんどの大腸菌は我々に有益もしくは無害であると言われている。つまり外部に流出した大腸菌もまた、物理的な意味での健康被害を及ぼすものではないということである。

 このように考えてくると、私たちが「下腹部を洗ってから入浴する」という習慣は、糞便にまつわるいわゆる「便所」と呼ばれる環境を意識してのことだと分る。つまり「糞尿そのものが害」というのではなく、「そのものから想像される環境」からきているということである。

 だがトイレの環境は、一昔前と比べるなら格段に進化している。これは自宅のみならず、公衆トイレでも同様である。そもそもトイレが不潔であるとのイメージは、トイレの設置されている場所や臭気などの管理体制の不備によるところが多いのだろう。そうしたかつての環境が現在では変化しているにもかかわらず、同じような不潔さの意識だけが我々の意識に残っているということなのだろう。

 この投稿者の思いが間違っていると言いたいのではない。誤解であるにしろ、考え過ぎであるにしろ、私たちの習慣や意識にはどうしても思い込みがついて回ることは妨ぎようがない。だから、それは「私はそう思う」程度の範囲にとどめるべきであって、新聞投稿などという公共の場で披露するまでのことはないではないか、そんなふうに私は感じたのである。

 「事実の認定は、証拠による」(刑事訴訟法第317条)、そんな思いの染み込んでいる私の性格が、とんだところに不意に現れてきた結果なのかもしれない。日常生活にそこまで思いを巡らすことは人生を狭くすることくらい知ってはいるのだが、持って生まれたものなのか、それとも長年の仕事柄から染み付いたものなのか、ときどき広い人生をわざと狭く生きているのではないかとの思いに駆られることもある。


                                     2017.1.20        佐々木利夫


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銭湯のマナー