「連続の罠にはまってしまい、身動きができなくなってしまう」、これが私の弱点だとこれまで何度も自省を込めて書いてきた。そしてそのことは素直に認めざるを得ないだろう。だが、それを認めたうえでもなお、「連続の罠」は私だけでなく私たち人間の多くを執拗に捕らえて放さない、大きな問題になっているのではないだろうか。

 それは私たちがあまりにも長い間、二元論の陥穽にはまりこんでいたことに対する、しっぺ返しであるような気がしている。人は対立する極端の中に自らを当てはめ、人生を当てはめ、社会を当てはめようとしてきた。そして当てはめて評価することの中に、あたかも善と悪とを対立させようとしてきたのではないだろうか。

 光と闇、天国と地獄、白と黒、信頼と裏切り、右と左、上と下、働くことと遊ぶこと、浅いと深い、きれいと醜い、有罪と無罪、快晴と嵐、精神と物質などなど、数えだしたらきりがないほど、私たちは対立する二つのはざまの中で物事を解決しようとしてきた。そしてその対立の片方に「正義」を、もう片方に「悪」を振り付け、その中で自らの人生を安住させ律しようとしてきた。

 小学生の頃だったか既に中学生になっていたか忘れてしまったけれど、学校の国語のテストにこんな問題があったのを記憶している。それは漢字の書き取りや読み方などの問題が並んでいる中に、「次の言葉の反対の言葉を書きなさい、もしくは選びなさい」というものであった。問いかけとして、たとえば「高い」とか「熱い」などが呈示されていたのだろう。その時私は、「高い」には「低い」、「熱い」には「冷たい」を選ぶのが正解だと理解はしていたと思う。思ってはいたけれど、どうして「高くない」、「熱くない」と書くと誤りになるのかに疑問を感じていた。むしろ心の中では「高い」の反対は、「低い」という答えよりも、「高くない」の方が正答なのではないかとすら感じていたのである。

 ところで恐らく私たちが感じる二元論のなかで、最大のテーマは「生」と「死」になるのではないだろうか。縦線がふさわしいのか横線がいいのか、必ずしも理解しているわけではないのだが、人生を考えるときに無意識に横線を引いて右の端に「生」と書き、左端に「死」を書いてしまう。それは「生」が誕生を意味し、そして「死」と書いた左端までのどこかに現在の我が身を置く、そうした区間の中に私は命というものを理解し、自からの今を意識している。

 だがそんな風に理解しない人もいるだろう。小さな○を書いてその中に「生」の字を書き、そのすぐ隣に間隔をおかず密着させて○を書きそこに「死」の文字を書く、そんな風に生と死を考える人だっているだろう。恐らくその人は、「生」と「死」は異なるもの対立しているものとは認めつつも、一つの形象の表裏とみなしているのかもしれない。「生」の隣に隣接して存在する「死」、その中間というものは存在しなく、死はどこまでも突然に生じるものであり生からいきなり変化するものとして認識しているのかも知れない。ならば、それは「無」とどう違うのだろうか。

 そうした生と死の理解を、隣接した考えの一つとして認めてもいいと思う。ただ私は、「生」と「死」には、限られているにしてもある種の「時間」という間隔、もしは「健康の程度」という隙間みたいな考えを挟みたいように思っている。生と死の間に、ある種の隙間を考えたいのである。

 人は死ぬ、それは人に限らず動植物も含めた命が持っている宿命である。死のない生など考えられず、命は死があってこそ成立するものだと思っている。「生」のない所にそもそも「死」は存在しない、そこまでは誰にでも理解できるのではないだろうか。そして生と死が対立する思いであることは、私たちが常識的に理解している一種の確信である。

 でも生と死がある一線を境とした対立であるかどうかは、必ずしも言えないのではないだろうか。医者がある患者を診察して、「ご臨終です。○時×分」と家族にしろ、近隣にしろ、はたまた第三者たる看護婦や立会人にしろ本人以外の者にその事実を伝える、その時にその人は死んだのだと私たちは理解している。

 そうした死の定義を私たちは長い間当然のこととして理解してきた。そしてそれは時に、医師の判断を待つまでもなく他者である己自身の理解としても承認してきた。もちろん、法律的には「死の判定」を下すためには、一定の資格(例えば医師など)が必要とされるであろうことは理解している。しかしそれは法的な死の認定としては必要であるかもしれないにしても、実質的な死の判定は誰もが持っているいわゆる「常識」の中にあると思っているからである。

 その判定の時期を仮に多少誤ったとしても、時間の経過の中にある死の判定にそれほどの違いはないだろう。確実な死は、それほどの間もなく目の前に示されるだろうからである。脈が止まり(心臓停止)、呼吸が止まる、それで人は死んだのである。医師はそのほかに例えば瞳孔の拡大などをチェックするかもしれない。だが、医師の判断と私たちいわゆる素人の判断とにはほとんど違いがなかったのである。

 ところが、医学の進歩はそうした素人の判断を覆すようになってきた。死の判定が非常に専門的、技術的になってきたのである。恐らくその最大の原因は「人工心肺」の発明にあるような気がする。心肺停止を死と結びつけていた私たちの常識を、このマシンは根底から覆してしまったように思う。人口心肺は、意識の戻らない状態にある患者の心臓の鼓動や呼吸する胸を、機械的にいつまでも継続させることを可能にしたのである。

 私たちは長い間、恐らく石器時代を含む人が他者の死を意識するようになったであろう数千年数万年もの時間を、心臓が止まり呼吸が止まるという誰にでも分る事実と死とを結び付けてきた。それは哲学とか倫理という問題ではなく、親しい人もしくは戦う相手の死を事実として感じるまさに現実の問題だったのである。それは目に見える死であり、決して生へと戻ることのない確実な死の実感だったのである。


   いつもの悪い癖が出てきて、生と死の境が混乱しているようです。「生と死(2)」へと続きます。


                                     2017.5.19        佐々木利夫


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生と死(1)