携帯電話が通勤電車から私の読書空間を奪っている、と書いたのは遠い昔のことになってしまった(別稿「減っていく私の居場所」参照)。携帯と呼ばれていた電話機がいつの間にか「ガラ携」などと、時代遅れを象徴するような評価を受けるようになっている。代わって「スマホ」というインターネット接続の携帯小型コンピューターまがいに変身した今でも、私に対する読書空間侵奪状況にそれほどの変化はない。むしろゲームなどが多様化してきているせいなのか、LINEと呼ばれるショートメールが多様化しているせいなのか、スマホを手にしている乗客は増える一方である。これから書こうとしていることは、そうした現状の延長上にある。

 この頃のJRは、障害者支援の法律が施行されたせいもあるのか、ほとんどの駅にエスカレーターやエレベーターが設置されるようになり、最近は停車する電車の出入り口に合わせた転落防止のガード柵の設置が話題になっている。それはともかく、今回はエレベーターの話題である。

 このごろ、エレベーターに乗る場合に、「行き先階のボタンを誰が押すのか」が気になってきたのである。そんなささいな行為が、法律や規則などで決められているわけではないと思う。だが、例えば数人がエレベーターを待っていて、しばらくして到着しドアが開いて乗り込んだとき、誰かが行き先階のボタンを押す必要があるだろう。そうしたとき、誰がそのボタンを押すのだろうか。それは乗客のそれぞれが、自分の行きたい階のボタンを押すのが普通だろう。その階へ行くために利用するのだから当然のことである。

 ここで話は少しそれるけれど、私は毎日JRを利用して通勤している。足首を痛めて不自由なこともあって、駅ではエレベーターを利用している。朝夕とも他のサラリーマンやOLや学生などの通勤通学の時間帯に近いこともあって、満員とまではいかないものの、数人が同時に利用することが多い。

 出発駅は改札口が二階にあるので、地上からエレベーターを利用する。そして改札口を通って別のエレベーターに乗り換え、列車の通過するホームまで下りる。つまり乗車するのに二台のエレベーターを使うのだが、二台とも「上」へ行くか「下」へ行くかしか目的階はない。したがって途中階での停車はないので、乗客全員の行き先は必然的に共通している。

 これは降車する駅でも同様で、改札口は一階なのだが列車の到着するホームが二階になっているので、朝に利用する駅と同様である。ただ、この駅にはエスカレーターも併設されていて、私はもっぱらそっちのほうを利用しているので、エレベーターの利用はそれほど多くはない。

 さて自宅近くの駅でのエレベーターである。数人が待っている。私が最初に乗り込むときは、私が二階へ向かうボタンを押す。また私が最後に乗り込んだときは「閉まる」のボタンを押してドアを閉める。かくてエレベーターはそのまま目的階へと移動する。「閉まる」のボタンは、押さなくてもいずれドアは自動的に閉まり、目的階にエレペーターは向かうことは決まっている。にもかかわらず、なぜ乗客は「閉まる」のボタンを押してしまうのか、それについてはいささかの興味はあるのだが今日は触れないでおこう。

 数人の乗客がいて、私が最初もしくは最後であるときは、こうしたパターンで乗降はスムーズにいくことになる。ところが最近、このパターンに異変が生じてきているのである。私の乗降がいつも最初か最後であるとは必ずしも限らない。むしろそうならないケースの方が多いだろう。

 そうしたとき、目的階、つまり上へ行くか下へ行くかの指示ボタンが押されない場面が目立つようになってきたのである。つまり、最初に乗車した人が行き先ボタンを押さないのである。押さないとどうなるか。私の利用するエレベーターはこんな風にプログラムされている。ドアが閉まってもエレベーターの籠は止まったままで、録音された女性の声が「行き先ボタンを押してください」とアナウンスするのである。

 そんなケースがあったところで別に不思議はない。行き先ボタンをつい押し忘れることもあるだうし、押したつもりなのに押されていないことだってあるだろう。また時には利用に馴れていない老人などが、ボタンの位置や意味などを理解できていない場合だってあるかもしれない。

 それはそれで何の問題もない。気がついた人がその代わりをすればいいだけのことだからである。ところが、多くの場合それとは違うのである。私が感じたのは、その原因が若い女性のスマホにあるように思えることであった。彼女は自分が最初に乗り込んだにもかかわらずスマホに熱中していて、行き先ボタンを押すことに無関心なのである。無関心であることは、乗客が乗り終わって「行き先ボタンを押してください」のアナウンスが流れても、その当人がまるで気にしていないことから分る。

 スマホに気をとられて、つい押すのを忘れてしまったということもあるだろう。それでも私がここにこうして書いているということは、単に忘れたということでは済まないように感じているからである。そうしたケースが繰り返し繰り返し、目に付くようになってきているからである。そしてそのいずれもが、スマホに見入っている若い女性がエレベーターへの一番乗りだったことである。

 別にその若い女性が、乗客に対する意地悪やわざと行き先ボタンを押さなかったとは思わない。また、気づいてはいるけれど、面倒くさいので押さなかったわけでもないようである。「行き先ボタンを押す」という意識が彼女にそもそもないように見えることが、とても気になったのである。つい忘れたのでもなければ、ボタンを押すことをそもそも知らないのでもないだろう。誰かが押すだろうと、億劫を決め込んだようにも思えなかった。

 だから一番に考えられたのが、無関心ということであった。ボタンを押すことに、そもそも関心がない、意識が回らない、単にエレベーターのドアが開いたから乗り込んだ、というただそれだけの意識しかないように思えたのである。

 行き先ボタンを押す行為は、別に善意でもなければ義務でもないだろう。もちろん押すことが、結果的には目的階を同じくする他の乗客に対する利他行為にはなっているには違いないけれど、その利他を意識してなされる行動ではない。まして、最初に乗り込んだ乗客のみに要求される行為でもないだろう。でもどこかでそうした暗黙の約束みたいなものが私たちの中で自然に出来上がってきているのでないだろうか。

 「傘かしげ」という言葉がある。雨の日に狭い路地で人とすれ違う。そんなとき互いに傘をすぼめつつ相手に水滴がかからないように少し傘を傾ける、そんな無意識のいたわりの素振りを言う。そんなささいな、「思いやり」と名づけることすら気恥ずかしいような行動に、無関心になっているかに見える世代の増加が、私にはどこかその人自身が行き先を見失っているように思えてならないのである。探し物はエレベーターの押しボタンの先にある、自分探しの自分はそんな小さなところに隠れている、そんなことを思ったのである。


                                     2017.7.6        佐々木利夫


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スマホとエレベーター