ある現象を予想して計画をたて実行することは、世の中の通例とまではいかないにしてもごく当たり前に行われている。そうしたとき、その予想の結果がどうであったかを確かめることは、これまた当たり前の行為である。それにより、計画なり予想がどこまで正しかったかを確かめることができるからである。つまり、予想とその検証とは対のものである。むしろ、検証のない予想などありえないとすら言ってもいいほどである。検証なき予想という発想そのものが、そもそも無意味であるということである。

 にもかかわらず、どうして天気予報には検証というシステムがまるで含まれていないように感じられるのは、どうしたことなのだろうか。そんな風に私が思ってしまうのは、きっと私自身が受身としてのみ天気予報というシステムに関わっている人間だからなのかもしれない。恐らく予報システムに関わっている者同士の間では、必要な検証は必ずなされていると思うのである。なぜなら前述したように、「検証なき予報」という考えそのものが、「予報」というシステムと相容れないと思っているからである。

 そうは思いつつも、私には実態的な意味での「検証」は、内部的にもなされていないような気がしてならない。検証はされているのかもしれないが、検証結果はおろか検証の事実さえも私たちには少しも伝わってこない。それは、「検証していない」ことと同じではないかと思うからである。

 「検証」は、検証している側が内部だけで結果を保持しているだけでは無意味である。しかも天気予報は予報する側内部だけの問題ではない。少なくとも国が税金を利用して、その情報を国民に資するものとして活用し公表するものなのである。

 かつて天気予報は国防のための大切な秘匿情報とされた時代があった。そうした行為の正当性はともかく、天気予報の位置づけがそこにあるのなら、それはそれでその秘匿性を認めてもいい。軍事利用するために台風の進路を変更するような技術が開発されたり、あるいは自在に消滅させたり巨大化させるような、つまり、気象をコントロールするために天気予報技術が要求されているとするのなら、検証の発表はまさに軍事機密になるだろう。

 でも私にはそうは思えない。天気予報は必ずしも「日本の天気」として日本国民に資するだけに利用されているものではないだろう。地球温暖化や世界気象、さらには海水温の変化などなど、地球規模の技術なり情報として要請されている面があるとは思う。だが、現在の天気予報が、軍事目的のような秘密めいた役割を負わせられているとは思えない。つまり、検証結果を秘匿するような意味はないと思っているのである。

 検証と一口に言ったところで、それをどんな形で発表するかは難しい点もあるだろう。快晴予報が晴れ程度になってしまった、曇りが雨になったなどから、台風の進路予想がまるで外れたなどまで、「外れの程度」をどう評価するのかはとても難しいとは思う。

 それでも天気予報は、常に明瞭な実績というか結果が目の前に呈示されるものである。「結果が不明確」と言うような場面はないと言っていいのではないだろうか。つまり、予報と結果とは数時間あるいは数日を経て、誰の目にも明らかに示されるということである。

 にもかかわらず、予報の評価について気象庁はまるで無関心を決め込んでいるように思えてならない。こんなに明らかに対比できる証拠が目の前に提示されていながら、「予報が当たったこと」にも「外れたこと」にも頬被りをしたままなのである。

 予報なのだから「当たり外れ」があるのは当たり前である。「当たって」自慢するのもいいだろう。その代わり「外れた」ことの反省を予報する側の責任として明らかにすべきであると思う。

 そうして一方で「警報」じみた予報が乱立されている。風雨だけでなく、霧や風向や波高などなど、覚え切れないほどの「予報の種類とその程度」、そしてその予報に対する住民への警告などが複雑に存在している。

 そうした警告が、あたかも発表する側の免責を担保するかのように乱発されていると感じるのは、私の勝手な思い込みだろうか。とりあえず「警告」さえ出しておけば予報する側として免責される。その警告が当たろうと外れようと、後日検証することもされることもないのだし、とりあえず警告したことで責任を果たしたことになる、そんな、思いが予報する側にあるように思えてならない。

 とりあえず「雪崩」の注意報を出しておけば、仮に雪崩が起きなくても無責任な警告としての責任を問われることはない。もし雪崩で被害が起きて被害が発生したとしても、それは警告に対して対策を採らなかった住民や市町村などの自己責任であって、予報する側が責められることはない、そんな思いが予報システムそのものの中に、あたかも「ワーム・虫」のように忍び込んでいるのではないだろうか。

 そしてそうした思いは検証しないという風潮の中にどっぷりと浸かり、「とりあえず警告は出しておけ」、「そうすることで、起きても起きなくても責任が問われることはない」との思いをスタッフの心に育てているのではないだろうか。あからさまにそんな気持ちを抱いて、日夜予報に携わっているとは思わない。だが、「検証しない」、「検証を公表しない」という風潮のなかに知らず知らず、そうした気持ちが醸成され、拡散されていっているように思えてならないのである。

 もちろん、予報する側にも言い分はあるだろうと思う。恐らくその筆頭は「外れた予報を検証し発表してしまうと、国民は予報を信頼しなくなるだろう。それが恐い」にあるような気がする。そのことについては稿を改めて書くことにしよう。「予報と検証(2)」へ続けます。


                                     2017.712        佐々木利夫


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予報と検証(1)