前回(別稿「予報と検証(1)」)で、検証結果を公表しないことの中に、天気予報に巣食う悪い虫がいるのではないかと書き、公表したら国民が天気予報を信頼しなくなるとの恐れを予報する側が抱いているのではないかと書いた。これはその続編である。

 こうした思いは十分に考えられる。外れの予報を繰り返し、その外れの事実を公表していたら、天気予報の信頼性そのものが損なわれるとの思いであろう。それはそうである。昔の落語に、河豚(ふぐ)を食う前には、「天気予報、天気予報、天気予報」と三度繰り返すと冗談がある。ふぐの毒に「当たらない」ようにするためのおまじないとして唱えるという意味である。そんなに当たらないことが当たり前のこととして信じられているのなら、そんな予報に税金を投じる必要はないだろう。外れるのが当たり前の天気予報を信頼しないのは、国民として当然だろうからである。

 だからと言ってその事実を隠すために「予報の検証もしなければ、結果も公表しない」というのは、とんでもない間違いである。そんなことを信じているとしたら、まさに国民を愚弄する行為である。

 隠すことでその事実を国民の目から遠ざけようとする行為は、それほど珍しくなく存在する。政治にも経済にも、当たり前の人間関係にも、「隠す」、「隠蔽する」ことがあからさまに見えることがある。例えば「嘘をつく」ことだって、ある事実を相手の目から逸らしたいために使われる。

 場合によってそうした行為は、複雑な人間関係のある種の潤滑油になっている場合だってあるかもしれない。また他方で、最近国会で話題になっている「森友問題」、「加計学園問題」にも同じように見ることができる。学校学部新設の許認可に何らかの影響を与えたのではないかと疑われている首相を始め、関係する官房長官や関係大臣、更には閣僚内閣府や文科省の職員かどが、こぞって「そんなことはない」、「記憶にない」、「文書は廃棄したので真偽不明」などの答弁を繰り返すなど、素人の思う疑問にも真剣に向き合おうとしない姿勢がそこにある。

 それでも天気予報は、今日の予報が明日には結果として表れるのである。雨の予報が快晴になったり、台風の予報が進路を外れたりそれほどの風雨を伴わなかったりなど、結果が目の前に事実として表れるのである。そしてそれは、検証という形をとらずとも、私たち市民なり国民が事実として受け止める現実のスタイルなのである。

 それはまた、私たち自身が検証という形で天気予報を日々受け止めていることでもある。にもかかわらず、天気予報は予報を流しっぱなしにするだけで、検証結果を予報の相手たる国民に知らせようとしないのである。

 それがもし、「検証していないから、発表もまたできないのだ」とするなら、こんなに明らかな事実としての予報との対比ができるのに、それをなぜしないのかを明らかにすべきだろう。検証が無意味だとするならその根拠を、検証が無駄だとするならその意味を、検証が更なる悪影響を与えるからだとするならその背景を国民に知らせるべきである。

 それをしないまま、予報の受け手である国民自らの検証に任せるままにしておくことは、予報する側の怠慢である。怠慢を超えて犯罪ですらあるような気がする。それとも、検証することで、何か取り返しのつかなくなるような、とんでもない事実が表れてくるのだろうか。

 それとも検証しないことで、何かを隠そうとしているのだろうか。疑心は暗鬼を生むことの例えのように、これほどあからさまな「すべきことをしない」ことが、どうにも私には理解できないでいるのである。

 そうした「検証しない姿勢」は、やがて「する必要がない」との意識を醸成し、そうした意識への埋没は反省への意欲をも喪失させてしまうことだろう。変化を嫌うことは安定社会、安定組織が陥りがちな罠かもしれない。公務員社会の前年踏襲や、「そんなことは聞いたことがない」や「前例がない」を理由とする新しいアイディアへの挑戦への嫌悪、更には失敗に対する防衛本能などなど、反省や検証のない世界は組織も意識も腐敗するばかりである。

 検証はあらゆる組織にとって、どんな場合も必要であり、必須である。それは必ずしも天気予報に限るものではない。だから私が天気予報だけを責めるのは、もしかしたら間違いなのかもしれない。天気予報システムだって一種の組織である。それだけを取り上げて糾弾するのは、まさに針小棒大のそしりを免れないかもしれない。

 それでも、こんなにあきらかに予報と結果とがあらゆる国民の前に提示されていながら、それでもなお検証をしない姿勢がどうにも気になっている。もしかしたら、忘れたふりなのか、国民を愚弄しているのか、そのうちに批判は頭の上を素通りしていくと思い込んでいるのか、そこんところが気がかりでならない。

 検証しないことで天気予報はやがて「当たらない」ことの中に満足してしまい、「当たる天気予報」というもっとも素直で分りやすい目的から逸脱した組織として安住してしまうのだろうか。そして「それでいいや」と組織も受け手である国民もそうした意識の中に埋没してしまうのだろうか。


                                     2017.7.14        佐々木利夫


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予報と検証(2)