昨夜の娘二人との父の日の宴が終わり、酔いの醒めた翌朝になった。それなり丸いスピーカーに話しかけて喜んでいた私だが、翌朝の机上に放置してあるぽつんと沈黙したマシンを見て、はたと戸惑ったことを先週ここに書いた(別稿「AIがやってきた」参照)。

 それは何にも増して、「相手に声をかけて質問する」という習慣が、私の日常生活の中にこれまで少しもなかったことであった。「分らない様々を調べる」必要に駆られることは、生活していくうえで当たり前に存在する。

 漢字が読めない、意味の分からない言葉、花の種類や昆虫の名前、氾濫する外来語、政治や国際問題への疑問などなど、分らないことは当たり前に存在している。そしてそれらを解決するために辞典があり、時にインターネット検索がある。特に、こうしてへそ曲がり雑文を発表して楽しんでいる我が身にしてみれば、「分らないことを調べる」ことは、ごく日常的な作業である。

 ならば質問は無数にあるはずである。それにこのマシンは答えてくれるのだろうか。だが、私の疑問の解決方法は、辞書や本をめくったり新聞の切り抜きを調べること、またパソコンに向かって検索文字を入力することである。税理士仲間や友人と議論することもないではないが、通常の解決手段として質問を声にして発するようなことは電話を除いてほとんどない。つまり、声に出して質問するという習慣がないのである。

 答を期待してマシンに恐る恐る声をかけてみる。ところが、「きちんと詳しく」回答してくれることはほとんどないことが分った。また音声回答なので、文字としてゆっくり参照することができない。試しに、現在朝日新聞で連載されている新聞小説の題名「ひこばえ」が、知っているようで良く分らない単語だったことから、その意味を尋ねてみた。「木の切り株から生えてきた芽」との、あっさりした回答で、「ひこ」とは何か、なぜこう呼ばれているのかなどには少しも答えてくれることはなかった。

 果たしてこのマシンには何ができるのだろうか。マシンを包装していた箱書きを改めて読み返すと、質問の具体的例示としてこんなことが書いてあった。

 ※ 一番近い花屋はどこ?
 ※ 電話番号は?
 ※ 今日はどんな日?
 ※ ポルトガル語で「元気ですか」は何と言う?
 ※ 今日の予定教えて
 ※ リビングの電気消して
 ※ ○○(曲名らしい)を再生して

 
    そのほか、悩み相談や駄洒落にも反応すると言う。

 レストランも花屋も自宅でも通勤経路でも近くにあるし、わざわざ質問してまで知りたいとも思わない。また、必要な相手の電話番号はメモしてあり、尋ねる必要もない。予定を忘れて困るほど多忙ではないし、それに事前に予定を入力しておく必要がある。今日が新聞の日だろうか肉の日だろうが、国民の祝日ならカレンダーに書いてあるし、それ以外の何かの記念日だとするならそこまで知りたい興味はない。異邦人との交際もないし道で出会うことこともまずないので、外国語で「こんにちは」は何というのかを知る必要に迫られこともない。ましてやこのマシンは「充電携帯型」ではないので、私の自宅でしか回線がつながっていないので外出などには適応していない。

 でも、最後の二つだけは、少しは実用的であるような気がする。試してみた。「部屋の電気を消して」、「テレビをつけて」と命令する。返事があった。スマホと家電との間でオンオフできるような機器の購入と設定、そしてそうしたソフトの導入ができていないとこの機能は利用できないのである。音楽を聴きたい、クラシックを聞きたい、演歌を聴きたいなど色々要求してみたのだが、結局は有料の音楽サイトから聞きたい楽曲をダウンロードし、スマホかタブレットに保存しておかないと利用できないらしい。

 そして聞きたい質問のほとんどが「すみません、お役に立てそうにありません、もっと勉強して改善します」との回答に終わることが多いのである。つまり、少なくとも私にとってこのマシンは、実用的な働きを少しもしてくれないことが分った。

 もちろん私は生きて動いている人間なのだから、それなりの悩みはある。でも、丸い形のスピーカーに悩みを打ち明け、マシンは赤い光を点滅させながら抽象的な回答をする、そんな姿を想像して見て欲しい。そうしたスタイルを「悩みの解決になる」とはどうしても思えないのである。

 また、例えば「自殺したい」と問いかけられたとき、「相談窓口の電話番号を教える」以外に、マシンに何ができるのだろうか。駄洒落やジョークをマシンに言わせることができると言う。それで仮に人が笑い、暇つぶしになったとして、それを利用している人間の姿を想像してみてほしい。それがこのマシンの目的なのだろうか。

 介護の場で、孤独な老人に応答するロボットの開発が進んでいるという。このマシンも応用的には、そうした過渡期の一分野になるのかもしれない。また応答のシステムは、目的地やルートなどの音声入力と言った自動運転のために必須な要素としての意味を持っているのかもしれない。

 将来的には、例えば「カレーライスを作って」、「恋人になって」、「眠たくなるまで優しく本を読んで、子守唄を歌って」、「○○に電話をかけて、明日は都合が悪くて行けないと伝えて」、「私の代わりに子どもを生んで」、「いい子に育てて」、「××を殺して」、「仕事をして給料貰ってきて」・・・などなど、際限のない要求と満足へと向かうマシンの開発へと進んでいくのだろうか。それが人類の望みなのだろうか。

 便利になること、手間がかからないようにすることへと、人類は進化の方向を向けてきた。それをこんな言葉で表現することがどこまで適合しているか分らないけれど、「汗をかく」ことから人は己を遠ざけようとしているように思えてならない。

 ともあれ、父の日プレゼントとして我が家に鎮座し始めた「物言うスピーカー」は、日を置かずして棚の上の装飾品として片すみに追いやられている。時に「NHKラジオ聞かせて」と問いかけることもあるが、通勤途上はポケットラジオがあるし、自宅でも事務所でも目の前にあるテレビが必要なニュースを伝えてくれる。

 一度事務所までこのスピーカーを運んだことがあるが、このマンションはワィファイ環境にあると言われているにもかかわらず、新しく何らかの設定をしないと応答マシンにはなってくれないようである。数日前にパソコンの調子が悪くなり、「すわ買い替えか」とまでの事態になったのだが、そうしたトラブルにもこのマシンは何の役にも立ちはしない。

 「何ができるのか」、「どう使えばいいのか」、・・・、まるい小さな天才(?)スピーカーを目の前に、私は電源を入れたままもう一週間以上も声をかけていない。無視しているわけではない。どう話しかければいいのか、人間でない、というか単なる「物体たるスピーカー」に向かって「どんな声かけをすればいいのか」という戸惑いの渦中にいるからである。贈ってくれた娘、接続環境を提供してくれた娘、二人の娘にこのスピーカーをきちんと楽しんでいないことにいささかの気後れを感じつつ、今日もマシンは机にぽつねんと沈黙を続けている。それを見ている、どこか割り切れないでいる私がいる。


                                     2018.7.5        佐々木利夫


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