昔から読書は好きであった。小学生の頃から、学校の図書室に通っていたような気がする。それがそのまま大人になっても続き、今でも年に70冊前後は読んでいる。ここ15年ほどに読んだ本のタイトルや著者名などは、私のホームページに履歴として掲載してあるとおりである(別稿「私の今年の読書」参照)。

 ところが最近、このホームページの読書履歴に掲げた書名を改めて眺めてみて、愕然としたのである。全部が全部ではないけれど、そのほとんどについて書いてある本の内容が思い出せないのである。書いてあった内容だけではない、書名そのものの記憶すら失われていることに気づいたのである。

 その本を読んだという記憶がないのである。このホームページは間違いなく、私の読んだ本のタイトルを掲げたものである。読んでいる途中で挫折してしまった本もないではないけれど、読み始めた日に自分で本のタイトル、著者、出版社などを記したページを作成し、このホームページへアップロードしたのがこの読書記録である。それにもかかわらず、読んだという記憶のない本が数多く羅列されているのである。

 それは単純には私の物忘れによるものであろう。「年寄りにはよくあること」なのか、「痴呆の始まり」なのか、それとも年齢に関係なく「人は忘れていく」程度の範囲内に収まるものなのか、そこまでは分らない。ただ、少なくなくとも読んだ記憶すらない書名が、私の作成した「私の読書履歴」の中にずらりと並んでいるのである。

 自宅には三層になったスライド式の書棚が、自分の部屋の一角を占めている。そこには私の蔵書のほとんどが鎮座している。物心ついてからの仕事と趣味とで選んだ、雑多なジャンルの蔵書である。にもかかわらず、どの本にどんなことが書いてあったの記憶は今となってはまるで残っていないことに気づく。

 今でこそ読書のほとんどは、事務所から歩いて数分のところにある西区図書館から、インターネット検索による札幌市全館の蔵書配送システムを利用して無料で読んでいる。だが自宅や事務所の蔵書のほとんどは、自費で購入した本である。私はこんなにも多くの本を、自分で買い求めて読んだことになるのである。

 それなのに、読んだことの記憶がほとんど残っていないのは、一体どうしたことなのだろうか。読書の効果というか効用については、子どもの頃から色々と教えられてきた。読書は学問のみならず人生にとっても欠かせない手段であり、読書こそが勉学や人間形成にとって必要な方法だと繰り返し教えられてきた。

 それはつまり、読書によって人は知恵がつく、学問が身につく、人間が豊かになることを意味しており、それは本に書かれた内容が、その本を読んだ者の血となり肉となることを意味していた。言い方を代えるなら、読んだ内容が私自身になるということであり、本に書かれた先人の知識が私自身に伝承されることでもあった。

 それが、読んだ片端から忘れていくのである。内容どころではない、タイトルすら忘れているのである。忘れていても、きっと読んだことのいくつかは読んだ人の中に残っているはずだ、と人は言うかもしれない。読んだ本に書かれていたことはたとえ忘れていたとしても、きっとその全部か、一部か、片鱗かはともあれ、読んだ人の人格の一部を形成しているはずだと言うかもしれない。

 だが、私はそうした事実を確かめることはできない。昨日の私の知識と、今日の私の知識の量なり質を対比することなど不可能だからである。なぜなら、昨日まで知らなかったことが、その後の読書で新しく知ることができたという事実が確かめられるのなら分るだろう。だがそれには、「この本を読んで、昨日まで知らなかったこんな知識が得られた」という事実を、今日の私が記憶していなければならないことになる。

 もちろん、私の持っている知識の全ては、私自身が学習したことの結果である。能力には、例えば心臓の機能、消化のシステムなどなど、生物として遺伝子的に持っている生得的な機能もあるだろう。だがそれは、どちらかというと生物学的に生きることの機能であって、いわゆる知識とは異なるものだと思う。

 つまり、私の知識は教えられたものにしろ、経験や習慣によって身につけたものにしろ、雑多な経過で形成されたものだと思う。その中には、本を読むことで学んだ結果もまた多いとは思う。そしてそうした本を読むことで蓄積された知識が、どこでどんな方法で形成されたかの記憶が残っていないことも事実である。

 私は普通に日本語を話すことが出来る。それはきっと、両親から学び、兄弟との語らいや学校や職場などなどの経験から蓄積されたものなのだろう。しかし、そうした蓄積の経過を私が逐一記憶しているわけではない。だから、「記憶がない」ことと、「そこから学んでいない」こととは無関係だろう。

 このことは読書についても同様に言えるかもしれない。「この知識は、あの本から得たものである」との記憶がないとしても、その本の影響を受けていないとは言えないだろうからである。

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 最初に「この主張はへそ曲がりの偏見だ」と書いたのだが、その理由に到達しないうちに長文になってしまった。この続きは「読書と金融詐欺(2)」へバトンタッチします。


                                     2018.5.21        佐々木利夫


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読書と金融詐欺(1)

これから書こうとしていることは、へそ曲がりの身勝手な理屈であると自覚している。もしかしたらへそ曲がりの程度を超えて、屁理屈になってすらいるかもしれない。それを承知で、このごろふと感じるようになってきたことの一つをここで取り上げたいと思う。