「読書と金融詐欺(1)」の続きです。

 こんな意味の分からないタイトルになったのは、「本を買う」ことの意味が、どことなく分からなくなってきたからである。「本を買う」ことは私たちの日常における「物を買う」、「サービスを買う」ことの中に含まれるごく当たり前の行為である。対価を支払って「本」という財物もしくは「内容」というサービスを買うのである。

 そんなことは当たり前であり、そんな当たり前の行為に疑問を感じること自体がへそ曲がりなのかもしれない。だが私たちはある物なりサービスの購入に当たって、少なくとも内心では対価とその対象物が等価であることを承認し納得したのだと思うのである。もちろん内心なのだから、それが客観的に等価であるとの保証はない。

 それでも結果はともあれ、購入を決めた段階では等価であると信じていたはずである。たが、本は少し違うように思ったのである。等価であることを検証できないままに、買うことが当たり前、もしくは強要されているのではないかという思いに突然気づかされたのである。本は読まずに買う、もしくは買わされるのである。事前に内容を知らないままに、「買え」と強強要されているのである。

 そのことは「立ち読みお断り」という本屋での暗黙の商慣習が物語っている。少なくともタイトルと作者名だけは事前に知らされているけれど、肝心の商品の実質的価値である「内容」についてはまるで知らされていない、もしくは知ることを拒否されているのである。

 もちろん、内容こそがその本の実質的価値であり、それが購入対価に反映されているのだと言いたいのかもしれない。だから購入してもらう前にその実質的価値を購入者に公開してしまうことは、対価の支払い前にその価値を無償で提供してしまうことを意味していると言いたいのだろう。

 そのことがまるで分らないというのではない。だが、私は自分が購入し読み終えた本の内容について、その読書により得られたであろう知識なり娯楽の記憶を、まるで覚えていない場合があることに気づいたのである。

 それは単に私の記憶の問題で、もしかしたら何らかの知識が、無意識もしくは無自覚の状態にしろ私の中に蓄積されているのかも知れない。口にしたパンが、様々な作用によって髪の毛になったり心臓の細胞の一部になっているかのように・・・。だから、証明できないから事実ではないとは言えない。ただ言えることは、そうした記憶が一切ない読書という時間の消費が現実に存在している事実に気づいたのである。

 記憶のない読書に費やされたその本の購入費用、記憶のない読書に費やされたであろう読書のため時間、それは一体何なのだろうと思ったのである。私の書棚に並べられている数千冊の蔵書、そして読み終えて捨てられたかもかも知れない本、そして図書館へ往復して借り出し返却した無数とも言える本の数々、私は私の人生において膨大な費用を支払って本を買い求め、膨大な時間を読書のために費やしてきた。

 読書だけが私の費やした時間なり人生ではなかったし、私の財布の紐を緩めた商品ではなかった。それでも私の人生の多くを本に向けたことは事実である。その本の内容の記憶が、まるでないことに気づいたのである。もちろん、あらゆる読書の記憶が残っていないというのではない。会話の中で引用したり、あたかも私の独自の意見であるかように装っり、またはこのエッセイに登場させたりなどと、記憶にある本も沢山ある。

 でも前にも書いたように、私がここ数年間に読んだ本は、書名、著者名、出版社名をすべてこのホームページに載せている。年間60〜70冊くらいになるだろうから、15年間でおよそ1000冊にもなるだろう。そのほとんどが内容どころか書名すらも記憶にないことに気づいたのである。

 それでふと思ったことは、「本は知識のための投資」みたいな世間の風潮は、誤りなのではないだろうかということであった。「本を買え」、「本を読め」は、私たちの回りに神話のようにひしめいている。読むことは善であり、読まないことはあたかも人間失格を宣言されるかのように思われている。

 しかも、「本を買え」、「本を読め」は、内容を知らされずに奨励され、強制されているのである。それはあたかも「必ず儲かります」、「だから投資してください」、「これはあなたのために言っているのです」、「投資しないと儲かりませんよ」みたいな金融詐欺の手法と、まるで同じではないかと思ったのである。「信じなさい」というだけで補償も担保もなしに勧誘する金融詐欺と、何も違わないのではないかと思ったのである。

 どんな商品でも、対価と内容なりサービスが食い違ったときは、その取引は無効になることだってあるはずである。リンゴを買って、虫食いで食べられなかったら、代金を返還してもらえるだろう。テレビを買って映像が写らなかったら、そのテレビは欠陥品として取引は無効になるだろう。

 それは、「結果的にもしろお前が自分の意志で写らないテレビを買ったのだから・・・」と取引が有効になるようなことは、一般的な取引ではありえないだろう。もちろん場合によっては「写るか写らないか分らないけれど・・・」みたいな前提の下で、格安でいわゆる中古品やジャンク品に手を出すことだってないとは言えない。

 だが私の言う本の購入は、ジャンク品の購入ではない。にもかかわらず、そのテレビが写るか写らないか、つまり対価に見合うだけの価値がその本にあるのかないのかを検証することが許されないまま、取引が強要されてしまうのである。もちろん、その本を買うか買わないかの決定権は私にある。だがそれとても、その本の価値、それに伴う読書のための時間の浪費の可能性を知らないままに選択を迫られているという事実に変わりはない。

 繰り返し言う。私のこうした思いは、へそ曲がりを超えて偏屈、屁理屈だと思っている。単なる「読書の記憶が私の頭からすっ飛んでしまっている」というだけのことから発した、痴呆予備軍の身勝手な屁理屈なのかもしれない。

 私はこれが屁理屈であると認識しつつ、読んだ本の記憶が飛んでしまっているという事実に、いささか狼狽しているだけなのかもしれない。そしてその責任を我が身ではなく、「本を買う」という他の要素に転嫁させようとしているような気もする。
 恐らく私はこれからも読書を続けていくだろう。そんなことを予感しつつ、「本を読むということ」、「本を買うということ」とはどういうことなのかを、改めて我が身に重ねてみたいと思ったのである。


                                     2018.5.25        佐々木利夫


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読書と金融詐欺(2)