前回はルールの話しが長くなってしまった(別稿「百人一首と赤い腰巻き」参照)。続きは読み手の役割について書いてみたい。読み手は歌う(詠う)のである。演歌や流行歌のように歌うというのではない。同じような調子ながら、一首の全体に節をつけ取り手の耳にしつかりと届くように高らかに歌い上げるのである。札の文字の単純な棒読みではなく、独特の節回しでうなるのである。朝からこのゲームを続けて読み手になる回数か多いときなどは、声が枯れるほどになる。それほど、一生懸命うなるのである。

 その節回しがどこまで正しいのか、私にはまるで分らない。きっと仲間内でゲームをやっているなかで、見よう見まねで覚えたものなのではないかと思う。テレビはまだ普及していないし、ラジオで百人一首の競技会を中継していた記憶もない。だからたとえ下手くそであろうとも、人まねから始まったのだと思う。そして読みに慣れてきて、出番がそれなり多くなってきてからも、仲間同士から「お前の読み方は変だ」と言われたような記憶はない。そうした間接的な承認が唯一の支えとなって、私はその読み方がどこまで正調に近いかどうかを確かめる手段を持つことなどなかったのである。

 下の句だけにしろ百首読み続けるのだから、上の句との語調の整合性などに気を配る余裕などなかった。ただ、読み上げた札を敵味方のどちらが先に取ったかで、ごく稀にではあるがもめることがあり、読み手の判断で「引き分け」、つまり「タッチが同時だった」とする場合があったように思う。そうしたときは「流れ」と称して、読み上げ前の状態に一枚分戻すことがある。戻された札は再度読み上げることになるので、読み上げ数は百を超えることがある。戻された札は、残り札との兼ね合いもあるが、数枚後もしくは十数枚後、時には読み手の一種のお遊びとして間髪を入れずに登場させることもあった。

 これ以外は、ただ淡々と読み札を読むだけの作業が続く。ただ、読み手には注意しなければならない事項が一つだけあった。それは、同音異義の札、類似の札の読み分けである。それは下の句を読み上げるだけの作業だとはいっても、一気に読み上げるのではなく、途中で中断というか息継ぎをするからである。

 百人一首は和歌なので、基本的には「五、七、五、七、七」の31文字(みそひともじ.)で構成されている。このうち北海道では下の句(つまり後半の七、七)だけを対象にゲームを続けていく。このとき、読み手は最初の「七」を読んでしばし息継ぎし、そして後半の「七」の読み上げへと続けるのである。もちろん対戦者は、読み始めた前段部分で取るべき札が分るので間髪を入れずにタッチへと行動を起こす。そしてそれで十分である。

 対戦者は後段の「七」文字の読み上げの僅かな時間を利用して、乱れた札の整理や次に読み上げられるてあろう札への意識の集中をすることになる。多くの勝負はこれで十分である。ところが、こうした方法になじまない下の句がいくつかあるのである。それが「同音異札」であり、「類似札」である。

 そんなに多くはない。私が気をつけたのは二首一組が三組、つまり六首くらいだったように記憶している。一つは「今一度の・・・」で始まるものである。これは「今一たびの」で始まる下の句が、「御幸待たなむ」と「会うこともなが」の二枚あったからである。つまり、最初の七文字だけではどちらの札が読まれたのか区別できないのである。どちらが読まれたのかが分るまで、勝負師は目的の札を前にじりじりしながら待たなければならない。

 このいらいらを解決するには、三つの方法があったように記憶している。一つは後半の七文字が発音されるまでタッチを待つことであるが、これではいらいらの解消にはならない。二つ目は最初の七文字の読み上げに後半の七文字を暗示させる方法であり、具体的には「今一たびの」の「の」を、「のっ」を短く切ると「御幸・・・」なり「会う・・・」なりと予め決めておき、そうでない場合は「の」の読み方を「の〜」と延ばすのである。そして三つ目は七文字で区切ることなく、八文字九文字めまで読んでしまう、つまり「今一たびの御幸」、もしくは「今一たびの会う」まで一気に読み上げる方法であった。

 二番目の方法が多かったような気がしているが、そこまで行くにはある程度百人一首に熟練している必要があったような気がしているので、割と初心者によるゲームの場合は三番目の簡易な方法が採られたように記憶している。

 そのほか、読み方に気をつけなければならない札に、「我が衣では露に濡れつつ」と「我が衣でに雪は降りつつ」があった。前半七文字のうち最初の六文字までが同じだからである。また「身を尽くしてや恋わたるべき」と「身を尽くしても会わんとぞ思う」の二首もまた、最初の六文字までが同じなので注意して発声しなければならなかった。

 このほかにも百人一首には様々な思い出がある。北海道は下の句かるただと言われているが、ならば上の句の出番は一歳ないのかと問われるとそんなことはないのである。どの札というように特定されているわけではないのだが、ゲームのスタートは上の句の読み上げから始まるのである。それは勝負のための読み上げではない。単なる導入として上の句と下の句を通して読み上げるのである。

 ゲームに当たって読み手は任意の一枚を選び、節をつけながら上の句下の句を続けて、こんな風に読み上げるのである。「最初の一枚は空読みで〜、天津かぜ雲の通い路吹き閉じよ、乙女の姿とばしとどめん」。そして本番たる勝負札の読み上げに入るのである。「乙女の姿しばしとどめん・・・・きり立ち上る・・・・」、つまり下の句二首の連続読み上げになり、この「きりたちのぼる・・・」がゲームスタートの勝負札になるのである。もちろん、空読みした「乙女の姿・・・」の札は本番用にランダムな位置に挿入され、後の出番を待つことになる。

 書きながら、紐を手繰るように記憶が引き出されてくる。書かれた文字が行書体で読めず、字体というより絵札の感覚で歌を記憶した札も多かった。あ、い、う・・・で分けたとき、一枚しか存在しない札があって、それを一枚札と呼んで自分の得意札と勝手に決め、必ず自分手で仕留めると意気込んだこともあった。思いには尽きないが、この辺で止めることにする。


                                     2018.3.10        佐々木利夫


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百人一首、今ひとたびの〜