最近、結婚の生産性をめぐる話や(別稿「出産と生産性」参照)、東京医科大が女子受験生の合格率を意図的に下げて合格者数を減らした話など、女性差別とも言うべき話題が世上を賑わしている。生産性について発言者は人類再生産は結婚と出産にあると主張し、東京医大は女性の合格者を減らしたことは単に男女比の調整が必要だったからとの見解を示している。そうした話題で世論が賑わうことに異論はないけれど、ただその議論の方向にどことない新しい差別みたいな感触を抱いてしまったのは、もしかしたら私の偏見かもしれないけれど、気になってきている。

 それが「男女に差別を設けるべきではない」という視点からの指摘なり提言ならいいのだけれど、どうもそうした範囲を逸脱してしまっているような気がしているからである。もちろん男女差別を許さないとしたところで、男に子供を産むようなことまで要求しているのではないだろう。つまり、性差による男女の違いは基本的に存在しているだろうからである。

 科学の進歩は私たちの想像をはるかに超え、遺伝子操作による治療などが当たり前の時代になろうとしている。将来的には、出産が女性のみの機能や特権ではなくなるかもしれない。例えば男への子宮移植が可能になるような時代がきたとするなら、男による出産ということだって十分可能だろうと思うからである。

 更には人工子宮というものが可能になれば、出産や授乳などは女とか男とかの役割から離れてしまい性差という考えそのものが必要なくなる時代だってくるかもしれないのである。

 そんな先の話しは別にしても、結婚や入試などを性差を結びつける議論には、なぜか「女性の特有性」みたいな背景を持たせるような思いが強く印象付けられる。

 それだけこれまでの女性の位置が低かったので、その地位を男性並みに引き上げようとする意図があるのかもしれない。目標は男と女が並列になることにあり、そのためには女性に下駄をはかせて男の身長と同じにしようとする意図である。

 そのことに異論はない。男女はそれぞれに良い点や悪い点があり、それを認めた上で平等に扱おうとするのが性差をなくする議論だろうからである。

 ただ最近の議論はそれを意図する余り、女性優位の視点をことさらに強調しすぎてしまうように思えてならないのである。男女の違いを並列化するのではなく、女性優位の理屈を敢えて「男性蔑視」と並列してしまうことにより、時にその理屈がまるで独善で偏見であるかのようになってしまうからである。

 最近の新聞投稿にこんな意見が載っていた。「・・・英国のサッチャーもと首相や、ドイツのメルケル首相のような卓越した女性政治家がいるだけでなく、女性には、歴史的に差別されてきたことで男性一般にはない視点や経験もある。女性も様々に違いないが、国民を馬鹿にする厚顔無恥な男性政治家こそ締め出されるべきで、女性議員を増やすことはむしろ推進すべきだと思う」(朝日新聞、2018.6.13、静岡 無職 男性 85歳)。

 こんな理屈が正論として通るなら、どんな理屈も正論になってしまう。卓越した女性もいるだろうし、生活力のない凡庸な男性もいるだろう。天才の女性物理学者もいるだろうし、連続殺人鬼と呼ばれる男性もいるだろう。そしてその反対に、才能豊かな男性もいれば美しいだけで常識に欠けるような女性だって世の中には多数存在すると思うのである。

 そうした両極端をことさらにとりあげて、右を善、左を悪として対比させて議論するのは、少なくとも人種や性差や能力などを基に人を判断してはならないとする立場からするなら、間違いではないだろうか。男女で異なる視点があることは認めるにやぶさかではない。だがそうした視点の違いを、サッチャーと厚顔無恥な男性政治家とを対比することで自説を補強する証拠として利用するのは間違いであると思う。

 厚顔無恥な男性政治家も選挙で選ばれた、つまり国民から選択された代表なのである。もし、サッチャーを期待し、厚顔無恥な政治家を排除したいのであれば、ことは簡単である。選挙で選ばないことである。それに尽きるのである。結果は選んだ国民の責任である。国民がサッチャーを選んだのである。厚顔無恥な政治家を選んだのは国民なのである。

 男女差別に関しては、様々な意見が新聞投稿を賑わした。外科系勤務医限定でドクターフリー制度(給料とは別枠で社会貢献度に応じた報酬を与えること)ですべて完結するとの意見や(51歳、男性医師)、性別役割分業は時代遅れとする意見(55歳、主婦)、医療現場を支えるという目的があるなら男女比の調整は大学に任せていいとする意見(56歳、女性保健師、いずれも2018.8.29、朝日新聞、「どう思いますか」)など、様々な意見が見られる。

 ただ、男女均等を主張したい余りにことさら女性優位を唱え、無関係な男性の地位を不当に軽んじるような主張にまで及んでしまうと、本末を転倒させてしまう結果を招いてしまうのではないだろうか。優位の主張が、そのまま優位でない者の評価を不当に貶めるだけの意見になってしまう恐れがあるからである。


                                     2018.8.29        佐々木利夫


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