今週、憲法改正について書いていて(別稿「『自ら考えよう』の正しさ」参照)、国民の一人一人が自分で憲法草案を考えようとする提案が、実現不可能な行動の無理強いだと書いた。書いていて、こうした自律的な憲法作成過程への思いのほかに、もう一つ別な危うさの存在を感じたのである。

 それは、現在自民党を中心に考えられている憲法改正の考え方が、単独条文のみの憲法改正の提案ではなく、いくつかの条文案がセットで提供されている、されようとしていることにふと気づいたからである。そしてこれは、もしかしたらとんでもなく重要なことかもしれないと思ったのである。

 憲法といえども法律であるから、やや長い「前文」の特殊な位置づけは別にして、「天皇」、「戦争放棄」から始まり「国民の権利義務」、「国会」、「内閣」などと続く、全十一章百三条の条文から成り立っている。中には二つ以上の条文を組み合わせることで特定の思想なり目的・目標へと誘導している例がないとは言えないけれど、基本的には一つの条文に一つの固有の思いが込められていると考えていいのではないだろうか。

 現在自民党で検討されている憲法改正は、この103条もの多岐にわたる条文の例えば9条だけの変更を意図しているのではない。複数の条文の改変もしくは削除なりを検討しているのである。それはもちろん、文言を変更することによって、その条文の持つ意味・内容の変更を企図するものである。

 それはそれで間違った検討だとは思わない。現実に日本の憲法が戦後の70数年、一度も改正されたことがない。その背景には、改正には国会議員の三分の二以上による発議と国民投票による過半数の賛成が必要という手続の難しさ(憲法96条1項)があるのかもしれない。また改正の必要がないほど完成された内容を持っていたからだという考えだってあったのかもしれない。

 だからといってこれだけ長く改正されないことで、様々な規定が変化する現実社会に適合しなくなってきているとする主張を必ずしも否定するつもりはない。国民投票による過半数という数の多少だけに改正を委ねてしまっていいのかは疑問ではあるけれど、憲法そのものが自らの改正についてそう定めているのだから、それを否定すべきではないだろう。

 憲法といえども永久不変の不磨の大典でないことは、当たり前のことである。また、今回の自民党による改正発議が近々国会にかけられるかどうかはともかく、いずれ国民はその改正の是非について論議し投票をしなければならない時がくるだろう。

 そのとき、国民はどんな形でその改正案を審議するのだろうか。国会が国民に改正案を提示するとき、改正項目が単独であるなら問題はないけれど、複数の項目がセットで提示されたときの国民の対処法に疑問が生じてしまったのである。

 単独の改正、例えば9条だけをかくかくしかじかに変更すると提示されたときは、その是非だけを審理することで足りる。もちろん、審理すべき項目が一つだからと言って、簡単にその是非を判断できるわけではない。例えば刑法で規定する「殺人罪=死刑」という考えを廃止しようとすることについてだって、死刑制度だけを廃止する、死刑廃止して保釈なしの終身刑を設ける、死刑は廃止するが累積懲役制度(例えば累犯で200年、300年などの懲役刑を科す)を導入するなど、同じ殺人罪に対する処刑についても様々な思いを抱く人がいるだろうから、そんなに簡単ではないだろう。

 それでも単独条文の改正に対する判断ならば、少なくとも「賛成」「反対」いずれかの選択は容易である。悩むにしても右か左かを決定すればいいだけのことだからである。

 ところが、改正条文が複数存在する場合には、そう簡単に割り切るわけにはいかない。もちろん投票のシステムとして、改正を提案する条文ごとにそれぞれ賛否を問うことは可能だから、そうした方式を国民投票として選択することができれば、こうした問題は当面解決できる。

 例えば三項目の改正案を提示されて、ある人は「○、○、○」、つまり全部について賛成と投票し、またある人は「×○○」や「○○×」「×××」などを選択して投票することが可能であるならば、その結果ある項目に対する改正案は過半数で成立、二項目目も賛成が過半数、三項目目は過半数に足りなくて不成立などと、少なくとも投票した者の選択結果は示すことができる。

 ところが、例えは三項目を一括して賛否を問うような方式を採用してしまうと、個別の改正案に対する国民の意思はとたんに不明確なものになってしまう。上記の例で言うなら、一項目目と二項目目に賛成し、三項目目に反対の意見を持つ国民が「トータルで賛成」の一票を投じたとき、その三番目に対する意思表示の場がなくなってしまうのである。

 例えば@徴兵制度新設、A未成年者教育費完全無償、B老人年金倍増の三点セットの改正を考えてみよう。これはもちろん極端な例である。極端を承知で、こんな制度を新憲法に規定し、その国民審査を問おうとする場面を考えてみよう。この三つそれぞれを、きちんと冷静に考える能力を国民は有しているとしよう。だから徴兵制度に賛成する意見もまた、きちんと考えた結果なのだから賛成票として加算することに異議はない。

 この三者を個別に賛否を問い、それぞれを集計したのなら、それぞれにきちんとした国民の意思がそこに表れるであろうことは理解できる。だが、この三つをまとめて一人一票の投票権で賛否を問う方式にしたとしたらどうなるだろう。

 私は年金を受けている一人暮らしの老人である。結婚歴はなく、子どももいない。Bの年金増額は大賛成である。@徴兵制度は意味的には反対だが、当面この制度に該当するような孫や子はいないので、むしろ他人事でもある。Aの教育無償化はどちらかというと賛成だが、これも身近に利害関係者がいないので関心が薄い。

 さて、投票権は一票である。三票あるなら、@に反対、Aに賛成、Bに大賛成とすることに、何の躊躇もない。しかし三点がセットの形で賛成か反対かを選ばなければならない。徴兵制度反対という意思表示のため、反対票を投ずることは可能である。心のどこかで日本の将来のため、国際平和のため、人間の尊厳の意味からしてその徴兵制度反対に票を投じるべきだとの内心の声が聞こえる。だが反対票を投じるということは、そのまま年金増額の反対票を投じることでもある。

 だから心が揺れるのである。年金が増えたなら、近所の飲み屋に通う機会が増えて、ママさんの笑顔が歓迎してくれるし、仲間との交流も増える。最近テレビの調子がよくないし、冷蔵庫の冷え具合も悪くなってきていて、そろそろ買い替え時かなとも思う。それよりもなによりも、将来の色々な不安のために、少しでも貯金を増やしておくことも考えたい。

 迷うことなき徴兵制度絶対反対の哲学が、目先にぶら下げられた年金増額の人参のために揺れるのである。母子家庭で食うや食わずの子どもを抱えているシングルマザー、子沢山の平穏な家庭、エリートやフリーターや非正規の職業人、刑務所に入所中の犯罪者、入院中の病人、高校生の有権者・・・、有権者と一口に言っても様々である。目の前の利害、つまり人参に惑わされることなく、正義を意識して投票すべきだとの心根は持っているつもりである。でもその通りに投票するのか、出来るのか、人は迷い揺れるのである。

 迷って、揺れて、それでも人は選択しなければならない。幼児の教育無償や医療費無償に揺れる人もいるだろう。政権が一党支配になることのないような選挙制度のためなら、老人福祉を少しぐらい削ってもいいと思う人だっているかもしれない。

 迷うのはいい。人は迷うものなのかもしれない。迷い悩み、人はそうして生きていくのかもしれない。ここでは三つだけの選択肢を掲げたが、それが四つ五つと増えていき、しかもそれらを一括して賛否を問われるようになったとき、それでも人の選択した一票はどこまで正しい結果を示しているといえるのだろうか。年金増額のために賛成を投じた老人は、本当に徴兵制度にも賛成の票を投じたと言っていいのだろうか。セット投票の罠は、いたるところに潜んでいる。そしてその投票結果が国民の真意なのだと、私たちはどこかで思わされているような気がしてならない。


                                     2018.3.31        佐々木利夫


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セット改憲の危うさ