ノアの箱舟伝説は、聖書以外にも語られているが、聖書によると次のような物語である(旧約聖書、創世記、6章〜9章)。

 「神と共に歩んだ正しい人」ノア(500歳とも600歳とも言われている)は、神から地上に増えた堕落した人々を滅ぼすため大洪水を起こすと告げられて、巨大な箱舟を建造する。乗船を許されたのは人間としてはノアの家族(妻と三人の息子とその妻)のみであり、他はすべての動物のつがいであった。そして洪水は40日40夜続き、地上の生き物のすべてを滅ぼしつくした。つまり、今ある人類はすべてノアの家族の末裔ということになる。

 先週、絶滅は生命の必須であり、人類もまた絶滅危惧種であると書いた(別稿「成長曲線」参照)。そして書きながら、ふとこんなことを思ったのである。過去の生命のほとんどが絶滅への道をたどったことは事実である。にもかかわらず、命は今でも続いている。その意味はどこにあるのだろうかと・・・。

 生物の多様性という言葉が社会的にも定着しつつあるけれど、過去に発生した無数とも言える種の数から見て、現在の生物がどこまで多様と言えるかは疑問ではある。それでも、地球はとりあえず無数の生命に満ちているように見える。だから多様という表現に、否やを唱えるつもりはない。

 ただ言いたいのは、絶滅を繰り返す生命の歴史の中で、どうしてこれだけの種が生き残っているのだろうか、生き残ってきたのだろうかとの思いであった。数億年前の地球のあるときに生命が発生し、それが何らかの原因で完全に絶滅する。そしてその後に新たな生命の発生という事実が起こる。そうした現象が何回か繰り返されて、その最終回の発生が現在の生命に結びついているとも考えられる。それとも一回目に発生した生命が様々に分化し、その分化の先で多くは絶滅への道を辿ったけれど、かろうじて生き残った分化のか細い先に現在の生命があるのか、それは分らない。

 そのとき、とんでもない考えが湧いてきたのである。それを神と呼んでいいのか、それともたんなる超越者と名づけて擬人化していいのか、そんなことすら分からないのだが、宇宙を司る「一種の意思」みたいなものの存在を感じてしまったのである。

 私は無心論を標榜してきた。そして実際に少しも信じてはいない。正月に近くの神社に初詣に行き、家内安全を祈ることはあるけれど、それはあくまで一種の正月の習慣としての気休めであって、祈りが聞き届けられるとは少しも思っていない。

 そんな私が、ふと生物の進化について、とてつもなく巨大な意思みたいな存在を感じてしまったのであった。それは、私たちが存在する宇宙が、一つの巨大な意思によるゲームの場と考えてもいいのではないかとの思いであった。

 先にも述べたようにその意思が、必ずしも私たちの考えている生物としての意思に限定されることはない。また、私たちが実感している時間の経過に流される立体空間(いわゆる三次元空間)の範囲に収まる保障もない。いわば、「N次元に存在する意思」とでも名づけたい存在である。

 その「意思」が、一つの試みとして私たちの存在する宇宙を作り上げたと仮定する。四次元に存在する何かが、三次元を創りあげるということを考えてもいいし、6次元の存在が私たちの存在する宇宙を、ゲーム感覚で創りあげたと考えたとしてもいい。

 それは私たちが、夏休みの自由研究に立体(三次元)の工作物を作るとか、紙(二次元)に書いた絵を作るのと同じ意味である。

 分りやすく言うなら、宇宙は一種の金魚鉢のようなものであり、そうした金魚鉢がいくつも存在するのが多元宇宙ではないかということでもある。

 そんな巨大な一種の「意思」が、擬人的になるかもしれないけれど、気まぐれか、または自らが作り上げた金魚鉢に対するペットみたいな愛着か、それとも単なる実験の途中経過を楽しんでいるにしか過ぎないのかはともかく、一つの目的を目指して金魚もしくは水中藻、なんなら水棲微生物でもいい、それらの全部もしくは一部を育てようとしていると考えるのは荒唐無稽だうろうか。

 その考えに私はノアを感じたのである。神はノアとその家族のみを残そうと考えたのだろうか、それとも多くの「つがいの動物」、もしくはその中の一つの種を残そうと考えて箱舟の建造をノアに命じたのであろうか。神は人間の腐敗に業を煮やして、ノア以外の全滅を図った。それは、ノアを人間として残すために乗船を許したのだろうか。それとも、単に箱舟の建造のためもしくは他の生物の世話役として残したのだろうか。

 それが今地球に突きつけられている命令のように思える。地球はまさに「ノア直前の時代」にまで到達しようとしている。人類そのものがノアとしての使命を背負わされている。それは決してノアを生き残らせるためではないのかもしれない。金魚鉢を守るためには、金魚が死滅したってかまわないと意思者はかんがえているのかもしれない。ノアを残したのはノアのためではなく、水草を残すための手段なのかもしれないからである。

 人類は偶発的に発生した病原菌にしか過ぎず、いささか増えすぎて金魚鉢に悪影響を及ぼし始めている。だから、この際消毒殺菌をして、創りあげてきた金魚鉢の健全な成長を進めていく必要がある。その過程に人類は、単に滅菌してしまうのではなく、金魚鉢の資源として利用しようとしているのかも知れないのである。まさに人類は、余計者なのである。

 もちろん三次元を超えるN次元の世界を、私たちはどうやったとこころで実感することはできない。仮にその世界に生物(どんなものかも含めてまるで理解できないだろうか)が存在したとしても、私たちは認識することはできない。認識できないものは散在しない、切り捨てることは可能ではあるだろうが、少なくともN次元の存在そのものは数学的にしろ証明されている。その世界に住む生物が存在しないとは、どうして言えるのだろうか。

 私の腸内に棲息する大腸菌に、「私」という生物の存在は果たして理解されているのだろうか。そして数時間、数日間を単位とした大腸菌同士で、私の存在などとは無関係に、会話し互いの文化を作り上げていることだって考えられるのではないだろうか。


                                     2018.2.16        佐々木利夫


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