この頃の社会は、どこもかしこも人工頭脳(AI〜artificial intelligence)が大流行である。買い物から医療、流行から日常生活まで、例えばその中にコンピューターの介入があるシステム(機器)が含まれているようなケースには、頻繁にAIという単語が用いられることが多くなってきた。

 そのシステムに含まれる機器は、必ずしもメカニックな精密機械とは限らない。洗濯機や冷蔵庫、炊飯器や掃除機、更には介護機器やおもちゃなど、私たちの身近な生活に密着している類の機器であっても同様である。

 人工頭脳とは、恐らくその言葉どおりに「人間と同様の考え方」をすることが前提になっているのだろう。そして同時にその判断速度が人間よりも格段に早く、しかも間違いがないことが付け加えられている。つまり、それがどんな仕組かは別として、機械に人間もしくは人間以上の判断をさせることを意味している。

 そして人工知能の話題が出るたびに繰り返される仕組みに、「ディープラーニング」と呼ばれるコンピュータープログラムの存在がある。ディープラーニングの発見(発明?)により大量データの分析が可能となり、人間を凌ぐまでの能力をマシンが持つようになったとの話題である。

 ディープラーニングという言葉が出るたびに、その仕組みの解説なども同時にされるようになってきた。「一分で分るディープラーニング」、「三分で分る人工頭脳の仕組み」、「誰にも分るAI」などなど、それなりに解説している番組や書物も多い。

 人工知能にいささかの興味を持っている私としては、なるべくこうした話題に付き合うことにしている。だが、どんなに解説者が「分る」「分りやすい」をくり返しても、私にはどうやらディープラーニングを理解するだけの能力が備わっていないようだ。「相互に無関係と思われるような大量のデータ」を、多重的にしかも高速で分析するらしいことは分るけれど、その仕組みと結論にいたる道筋は何度聞いても理解できるようにはなってこない。

 私が人間の代表、もしくは世俗的な人類の平均値的な思考パターンを保有している存在だなどと思っているわけではない。それでも少なくとも「平凡な人間」程度の部類には入っているだろうことくらいは思っている。つまりは、少なくとも「私は人間だ」と思ってもいいだろうと言うことである。

 そんな私が日常を含む様々な場面で、判断したり選択したり決断したりするときに、どう考えても私の頭脳がディープラーニングを活用しているとは思えないからである。前年踏襲や昔ながらの常識、覚えたての生半可な知識の請け売り、そんな中途半端な記憶で事に当たっているとしか思えないからである。つまりは、少なくとも私はディープラーニングで人間らしさを保っているのではないということである。

 それでは人工知能とディプラーニングとは、どんな風に結びついていると考えればいいのだろうか。私が考えつく一番単純な思いつきは、「マシンは人間のふりができる」ということである。ディープラーニングは人工知能を目指すものなのではなく、巧妙に人間のふりをさせる単なる手段であるということである。

 例えば歯が痛い人がいる。その人に向かって、歯が痛いことを同情するような、もしくは慰めるような言葉を人口知能がかけることができるだろう。それは相手が歯が痛いことを声に出さなくても、顔つきや話し方などから推測することだってできるようになるだろう。もしなんなら、「同情のふり」の中に「数ミリリットルの涙を流す」という動作を加えることだって可能になると思う。

 だが相手の「歯が痛い」だろうことは、人口知能がプログラム結果から推定しただけである。だから、その判断は正しいのかもしれないが、人口知能そのものは「歯が痛くない」のである。恐らく喜怒哀楽と呼ばれるほとんどの分野に、人口知能は「理解したふり」はできるかも知れない。だが人口知能が何らかの形で相手に対して「うれしい」、「悲しい」、「つらい」、「切ない」などなどを発信したとしても、それは人の感情を理解したふりをしているだけにしか過ぎないのではないだろうか。

 ディープラーニングは、これからも進歩していくことだろう。「人間のふり」は、今後ますます緻密になっていくのかもしれない。ただそうした進化の果てにおいても、ディープラーニングの行き着く先が、人工知能(それが人間と同じ知能を持つという意味で)になることはないと思う。それは人の思考回路がディプラーニングで構成されているものではないからである。

 こう考えてくると、一つ疑問が出てくる。私たちの頭脳は、間違いなく物質からできている。脳だけがその個人を個人たらしめている司令塔なのかについては疑問があると思う。だから仮に脊髄や心臓やその他の臓器も、何らかの形で私たちの「命」か「魂」、更には「人間らしさ」に関与していると仮定しても、その関与している臓器それぞれが物質から構成されていることは否定できないだろう。

 もちろん、「命」や「魂」といったものを、人体という物質から分離させて考えることも可能だとは思う。個々人の存在そのものを「人体」+「個人識別された物質以外の思考のかたまり」と理解することだって可能である。だが、私には動植物まで含めた多様な命の存在、そしてそれが生と死の繰り返しの中で異なった個性として発生し続けてきた経過を考えると、物質の構成やその作用が命を形成していると考えることのほうに、より妥当性を認めたいと思っている。

 ここで話を簡単にするために、「私が私であることの根源は頭脳である」ことを前提にしよう。頭脳という言葉に心臓や腎臓やその他の内蔵を含めたところでなんら差し支えないことは理解してもらえると思う。こうした意味で頭脳というものをイメージしてもらえるなら、私の命や個性というのは私が持っている頭脳の作用だということになる。つまり、脳細胞の組み合わせというか接続方法による思考の発信が、私の命であり個人の標識であり個性だということである。


    人口知能の世界はまだ私の中で混乱しているようです。「人間らしさとは何か(2)」へ続けます。


                                     2018.1.6        佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
人間らしさとは何か(1)