ディープラーニングは人間の思考とは異なると前回書いた(別稿「人間らしさとは何か(1)」参照)。ディープラーニングの基本は大量のデータの存在である。インターネットに広がる無限とも言える情報、携帯電話やスマホから流れる情報、通勤経路や医療診療から得られる情報、天気予報やテレビラジオの情報などなど、まさに人間では、それも個人では絶対に対処できないほどの情報の中に私たちはいる。

 こんなに無限のデータに囲まれる私たちだが、そこから外れる人々の存在もある。貧困でスマホやパソコンとは無関係な人、引きこもりや病院嫌いや政治に無関心などでデータの発信がそもそもない人、そんな人たちが多数いるのである。その人たちの情報はデータに入ってこないか、または微小データとして無視されることになる。だが、無視されたデータはデータではないのだろうか。データがない、または少ないとして無視することはディープラーニングの機能としては認めていいのかもしれないけれど、果たしてそれは正しい判断になるのだろうか。

 また前回では、私たちの個性というか個人としての存在は脳にあり、その脳は物質から構成されていることにも触れた。そうすると、例えば私個人を仕組みとして考えるなら、物質である多数の脳細胞の複雑な接続関係からなる頭脳の出力として機能していることになる。

 脳細胞の数については、神経細胞を含めるかどうかで150億個とも千数百億個とも言われており、必ずしも定かではないらしい。それでも例えばコンピュータメモリーで言うなら現在はテラバイトの時代であり、1テラとは約一兆を意味する。つまり、メモリー換算だけでいうなら、コンピューターやメモリーを利用するマシンの分野は、人間の脳細胞の数をあっさり超えてしまっていることになるのである。

 ならばメモリーと脳細胞を比べならコンピューターは頭脳を越えたことになるのだから、能力もマシンは人間を越えたことになるのだろうか。確かに細胞の数だけを比べるなら、そうした言い方はできるだろう。しかしながら、計算速度や記憶の保持といった分野では、確かに私たちの能力を越えていることは認めざるを得ないだろう。だから、私たち個人の限度を超え、人間の能力を超えている部分のあることを否定できないだろう。でも、「どこか違う」、「人間とマシンとは何かが違う・・・」、そうした思いを私たちはどこかで人工頭脳に感じている。

 そうした思いを抱く背景には、頭脳がプログラムによって機能しているのではないということがあるのではないだろうか。このプログラムは、従来型の「悉皆方式」のみならず、ディープラーニングと呼ばれる「深層型」でもないということである。

 私たちの頭脳が、脳細胞の結合によって記憶や思考が構成されていることに違いはないだろう。またその結合による連絡や連係が電気信号などの物理的な作用によっているのも事実ではないかと思う。その機能はまだ私たちの知らない「何らかのプログラム」なのかもしれない。だから私たちが抱いている情緒などの様々な諸感情の発露も、まだ私たちが理解できていない信号の構成(つまり何らかのプログラム)で決定されていることは否定できない。

 頭脳のプログラムは、量子論的にできているのではないかとの説も聞いたことがある。量子論にまで及んでしまうと、私の能力をはるかに越えてしまうけれど、「光速度不変の法則」に支配されるていると言われるアインシュタインの世界と、情報伝達は距離に無関係に同時進行が可能だといわれている量子論の世界、いずれが正しいのか、とても興味がある。

 それとももっと別の方法で宇宙なり人間の頭脳は作られているのか、その機能はプログラムに代替できるのか、興味は尽きないものがある。私としては何の根拠もないのだけれど、私の思考回路が量子論に支配されるよりは、どこか光速度を越えることのできない電気信号によって構成されていると考えることの方が、どことなくロマン的であり同時にしっくり落ち着くような気がしている。

 ただ言えることは、これだけディープラーニングがもてはやされる時代になってきているけれど、その行き着く先に人工頭脳は存在しないのではないかと思えてならないのである。

 それともう一つ。「人間らしさ」という言葉の中には、「性善説」であるとか「人類みな平和」みたいな思惑だけで構成されているように思えてならない。だが、「人間らしさ」とはどんな場合も正義だけでで構成されているわけではないと思うのである。殺人や窃盗などの犯罪、多くの人の不幸を招く戦争、貧富の差を拡大するだけに機能しているように思える経済活動、いじめや偏見や差別の現実・・・、そうしたもしかしたら悪と呼ばれるような要素を、私は「人間らしさではない」と否定することができないのである。むしろ、殺人を犯すことだって、「人間らしさ」を構成する大切な要素になっているのではないかと思うのである。

 殺人犯や戦争責任者や金の亡者を、時に私たちは「人でなし」と呼ぶことがある。でもその「人でなし」は、「人間だけれども、悪だ」を意味しているのであって、決して「人間であること」を否定しているのではないからである。単に「かくありたいと願う理想の人間」からの、離脱の程度を言っているに過ぎないと思えるからである。

 人工知能が犯罪を考えることはないのだろうか。もし人工知能の多様な考えの中に、仮に犯罪要素が一つでも含まれていたとき、その犯罪性を抑止することはできるのか、その抑止もまた人工知能のプログラムとしての役割なのか、多様さが「人間らしさ」だとすると、多様な人工頭脳はどこまで人間らしくなれるのか・・・・。

 そもそも人間とは何なのか、確かに人間は特殊である。人間と「人間以外の生物」と二分できるほどにも人間は特殊である。特殊であることは、進化の過程で自然発生したものなのか、ならぱ人間と人間以外とが連続が切断されているように感じるのはどうしてなのか。

 人間の多様性を、俗に十人十色と呼ぶ。それは百人百色であり、万人万色でもある。こんな風に考えてくると、人間以外の生物もまた、決してクローンではないだろう。だが人類は、そうしたクローン性を超えて異質の個性を持っている。異種性がひときわ高いのが人間である。だとするなら、人間はこの世に必要のない間違って発生した異種生物なのか。

 ここでも私は、人間がたかだか数十万年前に発生した、生物としては異例の種であり、少なくとも地球という環境にはそぐわない例外的な生物のように思えてならない。そうした例外的な生物の行く末はどうなるのか・・・、淘汰され消滅していくのが人類のように思えてならない。つまり、人類は絶滅危惧種なのである。もしかしたら、存在してはいけない生物だったのではないだろうか。その判断は間もなく下るようにも思えているのである。


                                     2018.1.11        佐々木利夫


                       トップページ   ひとり言   気まぐれ写真館    詩のページ
 
 
 
人間らしさとは何か(2)